セヴェリエの耳元に、アルスが囁きかけた。
 アルスの声や、セヴェリエの存在は、セロドアに知られることはない。
 これは、過去の時間であり、セロドアは過去の人間なのである。セヴェリエ達は、完全にその傍観者であった。
『インガルドの死後、セロドアはこの宮殿の離れに軟禁されている。ただ吃音という障害であるがために、ダミアロスはセロドアの存在を恥じているのだ。四王家の会議にも出席を許されず、アルヴァロンの祭の間もずっとここに居た。母のベネディクトが床に伏してからというものは、ダミアロスのセロドアに対する冷遇はさらに辛くなった。……ベネディクトの病は心を侵し、いずれ死を待つのみだが、それでもセロドアは、母の傍へ近寄ることはできない。ダミアロスの配下に監視され、ダミアロスの許しなしでは何事も自由にできないのだ…それが、彼らの親子関係』
 セロドアの方へ向かって、人影が近づいてきた。
 動くたびに、金属の触れあう音が鳴る。甲冑に身を包んだマキュージオであった。右に兜を抱え、腰には大剣、背には弓と矢筒を背負っていた。いつか見た、銀と樫の矢である。
 セロドアが気付いて振り向く。と、マキュージオはその場に立ち止まって黙礼した。
「マキュージオ…」
 吃音のため、セロドアの声は掠れ、絞り出すような発音であった。しかし、マキュージオの顔を見るその表情は、笑顔に変わっていた。飛びつかんばかりに駆け寄っていく。が、マキュージオはそれを浮かない目で返すだけである。
「殿下。いよいよ出陣いたします。」
 ヌールと、ドリゴンの戦が、始まるところなのだった。
 マキュージオは、面立ちは二十代前半の初々しさを残していたが、佇まいはすでに一人前の戦士のようだった。
 すらりとした長身に、真新しい銀色の甲冑をまとった姿は、さぞかし多くの人々の目を釘付けにするに違いない。少年達は憧れ、若い娘は特にその神秘的な青い瞳に、心を惹きつけられてしまうだろう。
 その目でセロドアをじっと見詰め、
「いちど、王妃に救われた命。ヌールと、王妃と、殿下のために捧げてまいります」
「!…母上に…会ったか。…どうであった」
 母の名を出されて取り乱すセロドアをなだめるように、マキュージオは言葉をつないだ。
「お体はお変わりありませんでした。…ですが、お心はますます…もはやどなたのお顔もわからぬご様子です」
 とたんに、セロドアは青ざめ、両目を震わせ、
「死んで…しまうのか。母上…も」
 こみあげる感情を懸命に抑えながら、セロドアは呟いた。
 俯くセロドアの肩に、マキュージオの手がそっと触れた。セロドアを覗き込む瞳は、より青く輝いて見えた。>
 アルスの声がささやく。
『やつの目は、“業星”という言い伝えを持つ。軍神の加護を受けた者の証だ…戦場では聖エーテルの力を借りずとも、鬼神のような力を発揮する。が、その一方で家をほろぼし、国をほろぼすとも言われている。生まれたとき、やつは母の胎を食い破り、血の海の中で産声をあげた。取り上げた産婆は、呪われた目を見て、失明した。以来、父のマキシアヌはこの息子を畏れている。……この二人は、似ているであろう。かたや、父に息子と認められぬ王子。かたや、たったひとりの親に恐れられる騎士の子。宮殿内の待遇が、いずれ二人を引き寄せたのも無理はない』
 セヴェリエは、マキュージオの瞳を見た。
 深い群青の中に、銀色がかった円が浮かんでいる。
───こころが、吸い込まれるような気がした。
 ぞく、と背筋が震える。脳裏に一瞬、記憶が蘇る。セヴェリエに覆い被さってくる、傷だらけの大きな躯。寝台に深く沈む重みと、熱い肌の感触。耳元を何度もかすめる息。
(あ…)
 セヴェリエは、胸の内がにわかに滾るのを感じた。アルスはそんなセヴェリエの体のなかの機微を察したように、
『そのうえ“業星”を持つ者は、女を抱けぬ。やつを産んだ母、産婆を見るまでもなく、やつの人生に関わる女はすべて、業星の嫉妬を買い、破滅に追いやられるのだ。乳母から、街娼の女たち…そして息子を殺したマキュージオの命を助けた慈悲深い王妃も───やがてその轍を踏む。…ヌール王家騎士団の副団長。アルヴァロンの宝・ラディエントの矢の使い手。そして業星の眼の持ち主。マキュージオのまわりは常に血生臭い噂がつきまとったが、セロドア王子にとっては、この世でたったひとりの忠臣であり、友人だった。……それも、セロドアがこうして俗世と隔離されているからこそだったが』

<暫く俯いたままであったセロドアが急に顔を上げた。
「私も……出陣する」
「いけません。」
マキュージオは即座に制した。
「殿下はいずれ、国王陛下となられるお方」
「…私に……王の資格など、ない。わかるのだ…父は、私を我が子と思っておらぬのが。…しかし、私には…そんなことはこの際、どうでも良い……マキュージオ。そなたを失うことに比べたら…そなたが死んだら…私は…ひとりになってしまう…私の知らぬところで、ひとが死に逝くのは…もう耐えられぬ。……そなただけは…死んで欲しくない…」
 動揺するセロドアの手を、マキュージオはしっかり握ってやると、その場に膝をついた。
歴史