セヴェリエは幼い頃親を亡くし、修道院にひきとられた。
 修道院は、国の最北に位置し、セコイアと杉の巨木に覆われた森を抜けた一年中冷気が肌をさす気候のせいか、それとも、花崗岩の地表が、幾千もの刃が重なり合ったように見えるのでその名がついたのか───“刃(やいば)の丘”と呼ばれる場所に建っていた。花崗岩を砕いた石の煉瓦を積み上げた壁面全体が、紫色の蔦と、花の咲かぬ蔓薔薇に覆われた、古い古い修道院だった。
 セヴェリエは年老いた修道士達に育てられ、成長すると、修道士見習いとして修行した。そして今、修行の最後の課程のひとつである“沈黙の誓い”をおこなっている最中だった。これは3年間、誰とも口を利かずに過ごし、禁欲と信仰を神に証明するという修行の中ではもっともつらい部類とされていた。セヴェリエはまだ若く、少年と青年をさまよう年齢にあったが、自分の運命をよくわかっていた。身よりのない自分には、修道士として生きる道しかなく、それが自分にも合っていると考えていた。
だから3年間の沈黙の誓いも、自分に必ずつとまるはずだという確信さえ、持っていた。 しかし、ある時、そんなセヴェリエの心が、冬の湖に張ったあつい氷が一筋の春の日射しでふとひび割れるような出来事が起こった。

 もう何年も前から、セヴェリエの修道院の周囲では、戦災が絶え間なかった。王の子孫たちが、それぞれの領土を奪い合い、敵味方の区別もつかぬほど、戦況は混乱していた。あちこちの都市や村が破壊され、滅び去っていた。セヴェリエが生まれた村も、すでに焼け野原と化していた。 修道院は険しい山腹にあるため、被害を受けることはなかったのだが、このところは、ただでさえ数の少なかった参拝者がまったく姿を見せなくなっているばかりか、火薬と血の匂いが風にのってかすかに漂ってくるように思えた。 その上、怪しげな武装の人影が森に姿を現すようになり、静かな修道院の中にも、不安が漂い始めていた。

『あれは、放浪人(ほうろうびと)らしい』

暫くして、誰かの口がそう言った。もとは侵略から守るための民兵だった者が、守るべき町や村を滅ぼされ、行き先を失い、野山へ逃れて盗賊となったり、別の領地の傭兵となったりして、ほうぼうをさすらい続ける───そんな彼等は人々から放浪人と呼ばれていた。 
 セヴェリエがその放浪人と出会ったのは、沈黙の誓いを始めて半年ほど過ぎた、ある日の昼下がりだった。太陽は高く、澄み切った空の上で眩しい光を降り注いでいた。 セヴェリエは、長老の修道士とふたりで菜園に出ていた。 下草を手でひとつひとつ抜き、その日の夕食分の収穫を手分けして行っていた。 その時、上空で甲高い鳴き声がした。セヴェリエはとっさに顔を上げ、空を見た。 すると、天高くから、大きな山鳩がその体に矢を突き刺して落下してくるところだった。
鳥は、セヴェリエの目前の茂みに着地した。セヴェリエは、驚いて息を呑み、立ち上がって鳥に近づこうとして、とどまった。 遠くのほうから異様な気配があった。 セヴェリエは、気配がするほうへ目を向けた。 丘の中腹を覆っている森の、見晴らしのよい木立の間に、その気配の主はいた。 巨大な黒い馬に跨り、フードを深く被った武装の男が、放ったばかりの弓を下ろしながら、やはりこちらを見ていた。 両の瞳が獣のように鋭く、青く光っていた。不思議な光だった。

『放浪人じゃ。』

長老が、低く呟いた。用心と警戒の感情がその顔に浮かんでいた。セヴェリエは、倒れた山鳩を見下ろし、それが絶命していることに気付いた。放浪人の方へ再び目をやる。黒い放浪人は手綱の向きを変えながら、何事か口走った。

(その鳥、差し上げよう)

 声が聞こえるはずのない距離だったが、セヴェリエには、放浪人の唇がそうはっきり動くのがわかった。そして、放浪人の姿は一瞬で木立の奥へ消えてしまった。 長老は、それを見るとまた何事もなかったかのように、作業へ戻っていった。 しかしセヴェリエは、しばらくの間、死んだ山鳩を見つめ続けた。
 それから数ヶ月の月日が流れた。季節はすでに冬だった。
寒さは日増しにきびしくなっており、麓で起こっている戦争の様子も、深刻になっていた。火薬の匂いはいまや、はっきりと空気に嗅ぎ取れた。老修道士達は、最後まで修道院にとどまり、死ぬまで祈り続ける決意をしていた。
セヴェリエも、親代わりの修道士達に従い、沈黙の誓いを続けながら、祈りの輪に加わった。朝から晩まで、皆で礼拝堂に集まり、祈りの言葉を合唱し、聖なる香を焚き続けた。しかしそれで、戦火が衰えるわけではなかった。
 そんな毎日を送るうち、セヴェリエは、いつか菜園で見かけた放浪人のことを考えるようになった。修道院の南にある、セヴェリエの部屋には、あの放浪人が山鳩を撃った矢が、こっそりと隠してあった。
 なぜ、それをわざわざとっておいたのか、ましてや長老の目を盗んでまで隠したのか、今となってもセヴェリエにはわからなかったが───矢は、長い間禁欲的な生活を送ってきたセヴェリエの目には耐え難いほどの、美しい矢だった。 銀と樫を見事に組み合わせており、矢羽根には、虹色の光沢があった。鋭い切っ先には、水晶が使われているようだった。放浪人と呼ばれ、人々にさけずまれている身分の者が持つとは思えない、高貴を漂わせていた。
 セヴェリエはその矢を、長持の底へ仕舞った。
(もしかしたら、いつか、あの放浪人がまた現れて、矢をとりにくるかもしれない。)
 沈黙のちかいを破る気はないが、セヴェリエは、自分で放浪人に矢を返すつもりだった。

 そして、その日は思ったよりも早くやってきた。
“星の斧”と呼ばれる星座が輝く、ある夜のことだった。 一日の最後の祈りをすませ、部屋へ戻ろうとしたセヴェリエは、自分の部屋の戸がわずかに開いているのに気が付いた。 一瞬、戸惑ったが、息を整えると慎重に戸を開け、部屋の中へ入る。 粗末な寝台と、壁に掛かった十字架と、小さな暖炉がある以外は家具らしい物もない、石壁の部屋は、薄暗く、外と変わらない冷気に満ちていた。
 警戒を崩さないよう、セヴェリエは暖炉へ近寄り、燭台に火を灯した。一本の蝋燭に火が灯ると、途端に目の前の壁に巨大な影が浮かび上がった。あっ、とセヴェリエは思わず声を出しそうになって息を止めた。
 そこには、放浪人が立っていた。
刃の丘の修道院