日暮れを過ぎたあたりから、苔穴は騒々しくなっていった。
 ラウールの仲間の騎士達と、彼らの離れ離れになっていた家族が再度の別れを惜しみ、残り少ない時間に誰もが夢中になっていたためである。ボルカシアの存在も、人々を興奮させていた。人質であったことは、ハザ達によって伏せられてきてはいたが、苔穴をずっと勇気づけてきた彼女の不在は、人々に不安を及ぼしていたのだった。
 苔穴の中の一室では、年寄りたちが大勢でボルカシアを囲んで、まるで自分の肉親のようにボルカシアの無事を喜び、そしてこの先の道中をしきりに案じていた。ボルカシアは皺だらけの顔をひとりひとり見ながら話を聞いていたが、語りかけてくる声は後を絶つことがなく、彼女の周りはさらに多くの人だかりとなってしまっていた。
『済まん。通してくれ』
 緩やかだが引っ切り無しに押し寄せてくる人の群れの中、口ではそう断りながら、ラウールは強引に人の間へ割り込んだ。
『ボルカス』
 やっと目の前にその姿を認め、声をかける。
 やれやれ。───ボルカシアの顔を見て、ラウールは胸中で吐いた。
 身も心も疲れ果てている筈だろうに、つくづく<適当>がわからぬようだ。
 ようやくボルカシアの前に立てたラウールは、話を中断されて不服そうな老人に慇懃に頭を下げてから言った。
『ゾルグが来た』
 ボルカシアの鋭い瞳が、一瞬大きく見開かれた。

 ボルカシアがラウールについていくと、苔穴の武器庫になっている部屋に、ゾルグはいた。
 ボルカシアが声を掛ける前に、ゾルグは気付いて顔をこちらに向けた。蝋燭が壁に点々と灯る岩壁を背に、ゾルグは槍を握っていた。それはスピアーと呼ばれる槍で、長さは大人の男の背丈ぐらいあり、軽量で扱いやすいが、最前列の兵隊やかつて王城で行われた武芸大会で使うものよりだいぶ短く、白兵戦向きといえる武器だった。ゾルグの傍らには他にも槍が何本か吟味され、立て掛けられていた。
『迷っている』
 ゾルグは独り言のように言い、再び槍に目を落とした。
『どれも補修がされ、よく磨かれている。一本を選ぶのに時間がかかりそうだ』
『ゾルグ、そなたは……』
 ボルカシアは瞳を震わせた。
『俺も、連れて行ってくれ。あなた方と共に戦わせて欲しい』
『……嬉しいぞ』
 ゾルグを真正面から見つめ、ボルカシアは素直に喜びを表した。少年達との別れは、彼女の心の深部を痛めていた。彼女を取り囲む人間は大勢いたが、誰もその心を知ることはなかったのだ。そんな折に、現れたゾルグの姿と言葉は、人知れず沈み込んでいた心を力強く引き上げたのだった。しかしすぐにまた、ボルカシアの顔は真剣になった。
『修道士殿は』
 ボルカシアはセヴェリエのことを訊くだろう───ゾルグには、既に予想がついていた。だから答えも用意しておいた。
『傷の回復は良好だと、サラフィナス殿が確認した。あとはハザとブレイムが。───ボルカス殿』
 ゾルグは間を置いて、ボルカシアに言った。
『俺はリラダンを倒し、ドリゴンの地を取り戻したら、この国を再び生き返らせたい。人々が平和で、穏やかに暮らせる国にしたいと思う。一刻も早く、そう願っている』
『……………』
 ボルカシアは無言で、頷いた。その後ろで、ラウールも同様に頷き、言った。
『さあ、新しい味方に改めて、我らの仲間を紹介するとしよう。詳しく話すことも山ほどある。旅立ちまでの時間はわずかしかない。つまり───呑める時間もわずかしかないということだ。おっと』
 ボルカシアの視線を感じ、ラウールは肩を竦めた。
『明朝の山越えにせいぜい響かぬようにすることだ』
 踵を返しながら軽く笑うと、ボルカシアは武器庫の外へ歩き出した。
『私は先に休む。皆に伝えてくれ』
 背中でラウールに付け足す。
『わかった。年寄り共にはお前の部屋に近付かぬよう言っておこう。───そうだ』
 うっかりしていた、とラウールは去ろうとするボルカシアを引き止めた。
『ダーイェンからの預かり物を、部屋に置いてある』
『預かり物?』
 ボルカシアの眉が怪訝を浮かべる。その顔を見て、ラウールは一瞬言い澱むような素振りをした。
『…大使からだ』
 ボルカシアの表情が一変し、あからさまな嫌悪を浮かべる。友好的な筈のダーイェンからの預かり物、と聞いての反応とは思い難かった。苦々しい表情のまま、ボルカシアは無言で顔を背け、ゾルグ達の前から去っていった。
(大使…)
 ゾルグはダーイェンという国に思いを馳せ、大使というその人物を想像した。行ったこともない国の人々が、アルヴァロンを救う手助けをする。その理由は何なのか、考えてみたが、わからなかった。

 夜が更け、苔穴の中は宴の場と変わった。ゾルグが前に飲まされた苔茶ではなく、どこへ隠していたのか蒸留酒やビールがタンブラーに注がれ、人々の手から手へと渡されていく。ただ料理だけは、苔穴の食糧事情が窺える質素なものだった。
『時間があれば、海市館の食糧を持ってきてもよかったんだが』
 酔った男達の雑談の声が大きくなっている中、ゾルグの隣に並んだトロスが皿の上の豆とわずかな塩漬け肉の料理を見て言った。けれどもその料理は、ドリゴンの人間なら一度は口にした味だった。豆と塩漬け肉の煮込みなら、アルヴァロンの各地で食べられているが、港を持つドリゴンには、舶来の香辛料が昔から一般に使われ、味に他の地域には無い特徴を持っていた。独特の辛味と香りに、乾燥トマトの酸味が絡む味は、ゾルグにも当然覚えがあった。