森の平坦な道は次第に緩やかな丘陵に変わり、木立の風景も変わっていった。尖った先を天に伸ばす杉や松が、隠れていた朝日の光を導き出す。山道に入ると、皆の息も上がった。黙々と進む道は、誰も口をきかなかった。最後尾には、シンディエ達の姿があった。ゾルグは立ち止まり、彼らが追いつくと隣を歩んだ。
 山の中腹に来ると、眼下に大地が広がった。朝焼けに照らされた樹海は地の果てまで光り輝いていた。その向こうに、金色に光る山脈が見えた。その背後から、低い雲の群れが見える。
 ゾルグは立ち止まった。シンディエを呼び、カイエスとジブラールも立ち止まった。
『よく見ておけ。自分達の国を』
  ゾルグは暫く佇んでから、瞼の中に光景をしまいこみ、歩き出した。


 窓を叩く雨音で、セヴェリエは目を醒ました。
 横になったまま、目だけを動かして部屋の中を見渡す。
 広い部屋には自分以外誰もおらず、雨音だけが静かに流れていた。
 昨日、ゾルグが部屋を出て行った後、暫くしてサラフィナスと名乗る医者がやって来た。身体の様子を調べられてから、眠気を感じてそのまま眠ってしまったらしい。次第に意識が明瞭になって、セヴェリエは頭を上げ、上体を起こした。包帯をした胸のあたりに鈍い痛みを感じたが、動くことに辛さは無かった。
 身体の上の毛布をどけて、寝台の下に足を降ろそうとしたその時、扉が開かれた。現れたのは、サラフィナスだった。セヴェリエが起き上がっていることに一瞬驚いた表情を見せ、サラフィナスは寝台に近付いてきた。
『起き上がれるようになったか。傷はどうかな?まだ痛みを感じるか?』
 セヴェリエはサラフィナスの顔を見上げ、首を横に振った。
『全く驚かされる……回復が異様に早いと思っていたが、ここまでとは…』
 サラフィナスは深く息を吸い込みながら言った。常人なら死んでいる傷だと、治療を受けながらサラフィナスは言い続けていた。魔法としか言いようがない、あなたには魔法の素養があるのか?───何度も問われたが、セヴェリエは答えることができずにいた。
『包帯を取ってもよろしいか』
 サラフィナスはなかば興奮した顔で訊ねた。拒否する理由もないセヴェリエは、されるがままに夜着を肌蹴られ、包帯に手を伸ばされた。
『おお……』
 サラフィナスは感嘆の声を上げた。セヴェリエも、自分の胸を見た。中心より左に向かって、穿たれたような傷はわずかな肉の盛り上がりを除いて、他の部分の皮膚の状態となんら変わりはなかった。サラフィナスはセヴェリエの顔を窺ってから、その肌に手を触れる。確かめるように一度指先で触れ、次に強く押さえるように手で触れた。
『痛むか?』
 セヴェリエは首を振った。触れられている感触以外、何も感じなかった。
 サラフィナスは包帯をすべて取り去った。セヴェリエから離れると、考えを巡らせるように宙を見上げた。そして顔をもう一度セヴェリエに向けると、言った。
『───完治している』
 セヴェリエは自分で服を直し、寝台から降りた。軽い眩暈が襲ったが、眠り薬のせいだと思うと、気にはならなかった。サラフィナスはまだ考えに耽っている様子だったが、セヴェリエは構わずに扉の方へ向かった。
『どちらへ行かれる?』
 背後から呼び止められ、セヴェリエは顔を動かした。唇の端がピクリと動いたが、無言だった。
 ゾルグは、どこだろう。
 目覚めてすぐに、頭に浮かんだのは、ゾルグの事だった。部屋を去っていったあの後、どこへ行ってしまったのか。サラフィナスが入って来た時、すぐに訊ねようと思った。しかし何故か躊躇まれて、つい口を閉ざしてしまった。
『誰かをお探しか』
 サラフィナスが問いかける。セヴェリエは立ち止まったまま、目を伏せていた。
『────ゾルグ殿なら、旅立たれた』
 察したようなサラフィナスの声が、背中に突き刺さる。雨音が、ひときわ大きくなった気がした。
『……いつ』
『?!』
 雨音の合間に突然発せられた声に、サラフィナスは目を見開いた。
『そなた、言葉が…』
『いつですか』
 セヴェリエは振り返らず、はっきりと言った。
『…昨日の、夜も更けぬ内に、ここを出て行った。おそらくはもう────』
 扉が凄まじい音を立て、開かれた。おそらくはもう、樹海を出て、ダーイェンに向かっている。サラフィナスの言葉
を最後まで聞かず、セヴェリエは部屋を飛び出していた。
『セヴェリエ!』
 吹き抜けの上階から呼ぶ声を聞きながら、セヴェリエは無心に階段を駆け下り続けた。玄関に辿り着き、閉められた大扉を押し開けると、雨と風が前から吹き付けてきた。
 豪雨の中、柳森が溺れるように揺らいでいる。セヴェリエは裸足のまま、海市館の外へ出た。たちまち雨が全身を濡らし、水の壁が視界を覆った。泥が足を捉えても、セヴェリエは進んだ。やがて森の中へ入ると、歩みは駆け足に変わった。雨が響き渡る森の地面は水で満たされ、あちこちで水流に足をとられたが、それでも走り続けた。夜着は水を含んで重くなり、立ち止まると髪の先から雫が流れてきた。いよいよ息が上がってきて、セヴェリエは傍らの木の幹に寄り添った。天を仰ぎ見ると、白い空から矢のような雨が降り注いできた。
 何も考えることが出来なかった。ゾルグを傷つけた。自分自身にも、得体の知れぬものが棲みついた。これからどうなってしまうのか、何をすればいいのか────生きることは許されるのか。