ゾルグはトロスに訊ねた。
『ここの守りはこれから誰がするんだ?』
『誰も』
 答えは短かった。ゾルグはトロスの顔を見た。酔っているわけでも、ふざけている様子でもなかった。トロスは周囲の喧騒を確認するように黙ると、横目でゾルグを見て、低い声で話し始めた。
『ダーイェンが、合流地の反乱軍を拘束してるのさ。人数とひとりひとりの名前、素性を漏らさず記録し管理して、勝手な行動をすれば注意され、追及される。友軍として援助はするが、ダーイェンの内情をアルヴァロンに持ち出すことを禁じる為だと……今度のラウール達の行動も、この人数が限界だったんだろうな。そんな訳で、ここを出て合流地に入れば、俺もあんたも下手をすれば二度と戻れないってことだ』
『それは、ここの住人達も知っているのか』
 ゾルグの目には、壁にもたれて宴を眺めている片足の老人が映った。苔穴の住人は、決して老人ばかりではなかったが、長期の難民生活のせいで、男も女も痩せ細り、半病人のような状態だった。
『昔からボルカスと反乱を計画していた爺達はな。だが俺たちが居なくなればどうなるのか、皆想像くらいはしているはずだ。………覚悟もな』
『……ハザが残ったのは、エンデニールの為だけではなかったんだな』
 トロスがふいに顔を正面に向けた。傷で歪んだ顔に、驚くほど柔らかな表情があった。
『あいつはな、不器用なんだ。沢山の事を考えてる癖に、その自覚がないんだ。だから行動と言葉がちぐはぐに見える。───でも後から俺達は気付くんだ。あいつがいつも正しい、皆が望むことをするって事を……ハザが残ると言い出して、ボルカスは喜んだと思うぜ』
『聞き忘れていたが、南の地の民とは今どうなっている?』
 ゾルグの声も、いつの間にか、低く落とされていた。喧騒に混じって、歌声が聞こえた。奥の方のテーブルで、ジブラールが即興の歌を歌っているのだ。内容は聞き取れないが、聴衆は笑い転げていた。
『ここ最近は大人しいもんだ。もっとも、俺達がいなくなれば状況は変わるだろうが。苔穴から数リーグ西からが、南の民の里で、その境界の奴等が俺達の相手だった。奴等が来たばかりの俺達に対して、何を言ったと思う?“この地に入ったものは人も財も糧も、この地の我々のもの”だと』
『…………』
『だが安心していい。厄介な奴は俺達で既に片付けた。残っているのは雑魚ばかりさ』
『…オエセルの都は、まだあるのか』
 オエセルとは、南の領地を統治していた王家だった。王は戦死したが、その妻をはじめ、王族はまだ生きている筈だった。
『俺は一度しか近付いたことはないが、寂れていたな。自治体としての機能は、お前も知ってのとおりだ。わずかな城騎士が王妃と王女達を護衛しているだけだ』
 トロスがそこまで話したところで、二人の間に誰かが割り込んできた。酒臭い息が鼻をつく。
『どうした、二人して辛気臭い』
 陽気な声を上げながら意味の無い大笑いをする。ラウールだった。トロスが顔をしかめるのにも構わず、腕を肩にまわし、どこかへ引っ張っていこうとする。ゾルグの腕もしっかりと握られる。
『無礼講は今夜限りだ。鬼の居ぬ間にせいぜい楽しもう』
 集まってきた酔漢たちに酒のタンブラーを無理矢理握らされながら、ゾルグは思った。
 鬼、とはボルカシアのことだろうか───

 短い夜が明けた。苔穴の外には物々しいいでたちが並び、待機していた。枝の隙間の空はまだ薄暗く、空気は冷たい。けれどもラウールをはじめとする大人の騎士も、トロス達少年兵も、その顔は紅潮していた。静止しているが、どこか浮き足立って見えるのも、旅立ちの興奮のせいだった。
 ゾルグはラウール達と少年達のちょうど間の位置に立っていた。その背には槍が装備されている。苔穴で見繕ったスピアーだった。頑丈な鎖帷子も、苔穴の武器庫で見つけた。その他、今まで自分が護身用に持っていた短剣の他、軽量のショートソードも腰に下げた。武装している自分に違和感を覚えたが、それも次第に興奮と混ざり、士気へと変わった。
 目が合えば、少年達も、ラウール達も、笑みを送ってくる。彼らの胸には、ドリゴンの紋章があった。もちろん、ゾルグの胸にもそれは刻まれていた。ゾルグは、ドリゴン軍に居た頃を思い出した。
 ふいに周囲がどよめいて、ゾルグは顔をあげた。ボルカシアが現れたのだ。その姿をゾルグも見ようとして、目が止まった。
『ボルカス、お前…』
 ラウールが思わずその傍に駆け寄っていた。どよめきは、細波のようだったものが次第に大きくなっていく。
 ボルカシアの髪は、首の付け根から短く切られていた。後をついてくるラウールに、ボルカシアは一瞥すると言った。
『これからは命を懸けた戦だ。髪に構っている暇などない。ゆえに切った』
 そのまま足を止めずに、ボルカシアは歩みを進めると、騎士達の前に立った。騎士達が並ぶ背後には、苔穴の住民も大勢立っている。ボルカシアは声を張り上げた。
『誇り高きドリゴンの同胞よ。あなた方を長きに渡って苔穴の暮らしに縛り付ける忌まわしき鎖を、我々はいま、断ちにいく。我々の家を焼き、家族を殺し、全てを奪った憎き敵を成敗し、我らが先祖の代より守り続けた平和を奪い返す。積年の恨み、憎しみを耐え忍ぶ日は終わる。私が、約束する。必ずドリゴンをあなた方の手に戻す。それまで、今しばらくの間、辛抱してほしい。そして、我らの勝利を祈ってほしい』
 ボルカシアの瞳が、目の前の全員を映した。ボルカス、とどこからともなく声が上がり、次々とその後に声が続いた。ボルカスを称える声が、やがて全員の声となった。
『さあ───出発だ。いざ』
 ボルカスは片手を上げて声を治め、先頭を歩き出した。その後に、騎士達、少年達が続く。ゾルグも歩き出した。