(ゾルグ)
 その名を心に浮かべた途端、息が詰まった。息を吐くと同時に、嗚咽が漏れた。全身が震え、堪えきれなくって木から離れた。木の間を、幹に縋りながら進んでいくと、木々に囲まれた草原に出た。
 力尽き、セヴェリエは濡れた草の上に膝をついた。雨がその首を、肩を打った。顔を上げ、目を閉じて雨を浴びた。手の中に、音を立てて何かが滑り落ちてくる。ロザリオだった。セヴェリエは、救世主の目を見つめた。十字に、すべてを見通す大いなる目。それを両手で握り締め、セヴェリエは涙を流した。
 ゾルグを拒んだのは、ゾルグを責めているわけではない。それなのに、私は真実を告げることを躊躇った。ゾルグは誤解し、深く傷付き、全てを自分の責任だと思いこんだまま、去っていった。
 全ては私が、私自身が穢れているせいなのだ。浅ましい身の上でありながら、まだ神の子で居ようとした私の傲慢さが、彼の同情を壊してしまった。そして彼を、死の戦場へと送ってしまったのだ。
 セヴェリエは泣き続けた。長い間封じ続けていた声を、激しい雨の中に解放した。
 薄手の夜着は森の中を彷徨ううちに棘に裂かれ、足先から泥にまみれ、変色していた。身体は冷え切って、唇は色を失っていた。泣きながら、我が身を雨とともに地の底へ流してしまいたい───そう願った。
 跪いた姿勢から、身体を折り、蹲った。相変わらず強い雨が、背中を打つ。
 濡れた草に頬を擦り付けた時、霞んだ視界の先に、黒い影を見つけ、息を呑んだ。
 だんだん近付いてくる影が凶暴な息を吐く獣と知り、セヴェリエは恐怖した。が、身じろぎはしなかった。蹲った体勢のまま、目を閉じた。獣の吐息が、頭上に近付いてくる。濡れた毛の臭いを嗅いで、猛獣の牙を思い浮かべた。
(喰らうがいい───私にはもはや、生きるための望みは失われた。このまま生き続けても、また誰かを傷付ける。それどころか、世界を破滅させてしまうかもしれないのだ。それならいっそ、ここで食い殺される方が良い)
 しかしいつまでも、獣は襲ってくる気配がなかった。セヴェリエは恐る恐る、瞼を開けた。目の前には、銀色に光る一頭の白狼が座っていた。そしてその傍らには、皮の帽子にローブのようなマントを纏った少年が立っていた。その顔は、見覚えがあった。海市館で会った、山賊の中に居た顔だった。
 セヴェリエは腫れ上がった目を見開き、顔を上げ、起き上がった。少年は無表情のままつ、と近付いてきた。そして帽子を取るとセヴェリエの目の前で膝をつき、まるで祈るように頭を垂れた。
『?……』
 セヴェリエは少年の行動に呆気にとられていた。
 少年は頭を垂れたまま、右手を伸ばし、セヴェリエの夜着の裾に触れると、泥に汚れた端を引き寄せ、接吻した。
 そして次に、不可解な言葉を唱え始めた。

Sin e migda res domina ars

 セヴェリエの表情が、豹変していく。涙で腫れ上がった瞳が妖しい炎を湛え、口元に微笑が浮かんだ。
 立ち上がり、平伏したままの少年を見下ろす。
『エーン・ソルフの摂政───ミグダの血か』
 セヴェリエは呟いた。セヴェリエではない、セヴェリエの中に棲む、声が。
 
 何かの予兆のように、遠くから雷鳴がこだましてきた。

 まるで大地を陵辱するかのように、雷が降り注いでいた。
 豪雨は止むことなく、風を呼び、柳森は長い枝を空にしならせ、枝葉を散らしていた。
 海市館の窓という窓は今にも割れんばかりに風を受け止めていたが、剛健な壁は揺らぐことはなかった。そして館の中は、雨音とは別の、禍々しいものの侵入を許していた。
 地下から、煙のような霧が漂ってきて、館の中に充満していく。濃密で、甘い霧だった。それは館の二階までをも包み込んだ。扉の隙間からも入り込んできた。
『これは…』
 自室で異様に気がついたサラフィナスは、霧を肺に吸い込んだ途端、転倒した。意識が落ち、そのまま深い眠りにつく。エンデニールの寝室に居たハザも、同様だった。椅子に腰掛けたまま、眠り込んだ。
 やがて海市館の中が完全に霧に包まれてしまうと、今度はどこからともなく、不穏な破裂音が起こった。火の中で、木の実の殻が爆ぜるような小さな音は断続的に続き、揺らめく霧の流れの間に、その実体が覗いた。
 それは細い蔓のような、木の根だった。根は幾千もの数で、壁の隙間から侵入し、床を這い、壁を伝い、一方向へ向かっていた。やがて夥しい根は束となり、衣擦れのような音を立てて、二階へ登りつめた。

『何だ、これは……』
 ハザは自分の目を疑った。信じ難い光景が、目覚めた彼を凍りつかせていた。奇妙な甘い霧に気がついて、転寝した一瞬の間に、部屋は異様な空間へと変化していた。
 四方の壁、床、天井に至るまで、細い木の根が無数に分かれながらはびこっている。ところどころの太い根からは枝が延び、葉を垂らしている。───見紛うことはなかった。すべて、柳の木だった。天井からは雪のように、緑の細い葉が散り続けている。あちこちでかすかに、木と木が擦れ、軋む音が聞こえる。今もなお、成長して変化をしようというのか───
 ハザは棒立ちのまま、幕のかけられたエンデニールの寝台を見た。幕の中にまで、根が伸びている。隙間から、柳の枝が黄色い粒子を吐いて揺れるのが見えた。
 ハザは腰の短剣を抜いた。
(エンデニール)