『…ヴェリエ。セヴェリエ!』
 耳元で声がして、セヴェリエは目を開けた。
『しっかりしろ』
 朝の日射しの中で、濃い栗色の髪と、少し垂れ気味の大きな目が覗き込んでいる。
───ああ、思い出した。ゾルグだ。
『大丈夫か』
 見ると、ゾルグの手はセヴェリエの手を握りしめていた。それがそっと離れる。
 セヴェリエは、自分の体の汗と、荒い呼吸に今さら気が付いた。
 そして思わず───自分の下肢に目をやった。濡れている。
『!…』
 思わず身を取り繕おうとして、ゾルグを見た。ゾルグはそれを受け流すように目を逸らした。
『…気にするな』
 口早に言うと、ゾルグは立ち上がり、テントを出ていった。
 セヴェリエは、暫く茫然としてゾルグが出ていった後を見詰めていた。

 ゾルグはテントを出て、陽光に溢れた森の中を進んだ。目的はなく、ただセヴェリエから離れたかったのだった。足早に進み 灌木を分け入り、小川のほとりに出る。
 水のせせらぎが目に入った途端、ゾルグは呻き声を上げながらその場に膝を折った。
 肌を刺すような冷水だったが、構わず掬い上げ、顔面にぶつけた。
───俺は、どうしたらいいのだ。
 東の荒野を出て以来、努めて冷静を装ってきたが、ゾルグの中の混沌はおさまることなく、それどころか彼の理性を破壊する勢いにあった。
 無理もなかった。
 薔薇の乙女の野営地で受けた陵辱の夜から、まだ二日も過ぎていないのだ。少しでも気を抜けば、脳裏に、そして肌に、記憶がなまなましく蘇る。その度、ゾルグは体の中心が熱を帯びるのを感じた。
それを遮るために、リラダンへの報復へ思いを巡らせたが、それは連鎖してロランを思い出させ、結局は堂々巡りにぶち当たるのだった。
 その上、自分のそばにはセヴェリエが居た。
 実のところ、それが最もゾルグを苦しめた。あの、仕方のない状況、事故だったとはいえ、触れ合った肌の感触は、ゾルグがこれまで体験したことのない衝撃と充足をもたらした。背中にセヴェリエの吐息を感じると、胸が苦しくなった。
 セヴェリエを抱くことは許されない。セヴェリエは神に仕え、一生を捧げる修道士だ。セヴェリエの道を閉ざす行為は絶対にしてはならないのだと、ゾルグは自分に言い聞かせた。しかし。────しかし先程の、昏睡したセヴェリエの痴態は、ゾルグには耐え難い誘惑に映った。昼間見せる、美しいが表情のない彫像のようなセヴェリエとは別人のような、艶めかしい、赤く色づいた頬と唇は…禁欲とは到底かけ離れたものだった。
…谷を目指そう。
 ゾルグは急激に思い立った。こんなところでくすぶっているよりは、目的を達成することを優先しなければ。そうでなくても、南は未開拓の樹海が覆う土地だ。再三行く場所であっても、注意しなければ、地形の変化に気づかず迷う。
方角を見失った場合、頼みの綱となるのは、日の傾きか、雲の流れか。あるいは空を飛ぶ鳥の姿だ。したがって、それらが姿を隠さぬうちに、方向を定めなければならない。
 ゾルグは今一度、川の水で顔を洗うと、立ちあがった。

 森を抜け、暫く行くと、道は緩い丘陵になり、山中へと続いた。
 南の地は、その半分以上が巨大な森に包まれており、地形は低い山が連なっている以外は平坦で、馬での交通ならば国内のどこよりも早く移動できた。
 セヴェリエ達は、日が落ちる前に、別名・“地の母”と呼ばれる緩やかな山に囲まれた、南の谷を見下ろしていた。
『谷の間に、霧がかかっている。あれが柳森だ。かつて、王族が住んでいた城がある。行くのははじめてだが…ロクサネが言っていた人物は、きっとそこにいるはずだ───急ぐぞ。日が沈んでしまう』
 ゾルグは、セヴェリエを先に馬に乗せ、その後に自分も跨り手綱を持った。
 普段は順番が逆であったが、下り道ではその方が安定がとりやすいためだった。
 二人が乗る馬・ヴァッサは、灰色の大型の馬で老年ではあったが、使い勝手の点では申し分がなかった。大抵の馬は、俊足ではあっても病気に弱く、飼料の種類も限られていたため長旅には不向きだったが、この馬に限っては、野生の種の血が混じっているのかそれらの心配はなかった。しかし、やはり老齢であったため、体力の限界はあった。
 ゾルグが手綱を引き、馬を走らせようとすると、躊躇するように足踏みした。
『どうした。ヴァッサ』
 少し乱暴に、腹を蹴る。するとヴァッサは鋭く嘶き、前足を持ち上げた。
『あっ』
 体がふいに振り落とされそうになり、セヴェリエは後ろのゾルグに倒れかかった。
『…っ』
 ゾルグの顎の下に、セヴェリエの頭が触れ、続いて耳が、ゾルグの唇のわきをかすめた。
 揺らいだセヴェリエの体の前に、ゾルグの右腕が伸びてきて、その胸を支えた。
 そして───そのまま、右手の平はセヴェリエの胸を押さえ抱き絞めていた。力が込められ、驚いてセヴェリエはゾルグを振り返った。待っていたかのように、ゾルグは左手でセヴェリエの顔を掴み唇を重ねた。
 食んで啜るような口吻に、セヴェリエは思わず手を伸ばしゾルグの肩を押しやった。
 するとゾルグはあっさり身を離した。
樹海の魔