『誰だ』
 室内の、どこか奥の方から声がした。ゾルグは身構えた。正面には広い階段が、二階から一階に降りていた。その右手の柱の影から、人影が現れた。ふらふらと、おぼつかない足取りの、細身の影であった。
 夜着らしいシャツの前をだらしなくはだけ、肩にガウンをかけ、裾を引きずりながらその人物は階段を降りてきた。
『こんな所に客人とは、珍しい』
 薄い金色の長い髪はもつれながら首の後ろでまとめられ、背中に流れている。狐のような細い目は、充血していた。無精髭の生えた口の端に銜えられたままの細長いパイプからは、家畜の糞のような匂いのする煙が立ち上っていた。
『エンデニール・リンクだ。』
 男はそう名乗り、パイプから煙を吐き出しながら、ゾルグに手を差し伸べた。ゾルグが躊躇すると、すぐさま手を引き、おどけるように手を恭しく仕舞い込む。それから、横のセヴェリエに目配せした。
『俺は…ゾルグという。そして彼はセヴェリエだ。』
『ゾルグ。セヴェリエ。ふーん』エンデニールは繰り返した。『で?ここに何の用だ。この時世に紹介状だのとケチはつけないが、泊まっていくのなら好きな部屋を使ってよし。そうでなければ、この館の物を何でも好きなだけ持っていくがいい。…それとも何か、私の命でも奪いにきたか?…それはないだろうが』
エンデニールは、自嘲するように鼻で笑った。
『俺は、かつて緑の連合軍にいた者だ。この場所のことは、その時の仲間の妹が教えてくれた。東の都に行くのが、俺たちの目的だ。ここへ行けば、助けになってくれると聞いてきた』
『はっ』
エンデニールは吹き出した。
『助けだと?……うむ。失礼した。ではその仲間の名は』
『ロボス。妹の名はロクサネだ』
『ロボス…』
エンデニールは暫し考え込むように、宙を睨み、パイプをふかした。
『…大戦中は、ここにも緑の連合軍が出入りしていた。その中に居たかもしれない…が、思いだせん』
『二刀流の剣術に長けた男だ』
『そんな奴、いたかな』
『黒髪の、年嵩は俺と同じ位だ。ロクサネは、ロボスの昔の仲間が南の谷にいると。────ここには、あなたのほかに人は居ないのか?もし心当たりがあれば、他に手がかりがありそうな所を教えてくれないか』
ゾルグは畳みかけた。
『うむ…まあ、落ち着け。そのうち思い出す。────もう夜も更けた。ガキどもが戻ってくる。遠慮はいらんから今夜は泊まっていけ。…おっと、紹介し忘れたが、この館の名は“海市館”だ。以後お見知り置きを』
 エンデニールは頭を掻きむしりながら踵を返し、階段を昇りはじめた。そして振り返って、
『部屋は三階以外ならどこでも使え。空き部屋だけはたんまりある。ガキどもが戻ったらそいつらにも紹介しよう』
 そう言い残してまた柱の奥へ身を引っ込めていった。扉が閉まる音がして、そこに部屋があることがわかった。
 ゾルグは、セヴェリエを見た。セヴェリエは、伏し目がちにゾルグを見返した。
 エンデニール・リンクのつかみ所のない様子に、お互い辟易してしまったようだった。

 海市館は、かつて南の地を治めた王の一族、オエセル家の所有する、王家の記録を保管する史書館であった。戦乱の中で被害をこうむらなかったのは、不規則に起こる森の濃霧で所在が定まらないためだった。霧の中、現れたと思えば消えるその様を表して、海市館とついたのも頷ける。
 エンデニールは、その海市館を護るリンク家の家系に生まれた末孫で、戦乱で唯1人生き延び、以来この館に住み着いていた。しかし家督を継いだといっても、仕える王家はすでになく、保管されている書物も価値を失いかけているのが現状らしかった。それに輪をかけて、海市館には現在、樹海を根城にする山賊が出入りするようになっていた。夜になれば彼らはどこからかやってきて、持ち込んだ戦利品を売買したり、酒盛りを開いた。エンデニールが“ガキども”と呼ぶ由縁は、事実彼らはまだ20歳にもならぬ若者ばかりだったからだが、彼らも元は戦災で親族を失った孤児たちであり、エンデニールとはどこか似た境遇で通じている様子だった。
 海市館にやってきて数時間後、セヴェリエとゾルグは、エンデニールから彼らを紹介された。一階の奥にある、広い食堂に、山賊達は山で狩ってきたらしい鳥やウサギを調理しながら、地下から酒樽を運び出し、そこらじゅうに酒をぶちまけて酒盛りを始めていた。セヴェリエとゾルグが入ってきても、一瞥するだけである。エンデニールは肩をすくめ、声を張り上げた。
『ハザ!ハザはいるか』
 すると調理場の奥から、大柄で、燃えるような赤毛が姿を現した。手に血糊のついたナイフを握っている。見上げるような長身だった。三白眼で、ふて腐れたように唇がめくれている。『うるせえな』
 しかしその声は、まだあどけなさが残っていた。
『…暫くここに泊まる、ゾルグとセヴェリエだ』
『それが?』
『東の都へ行くらしい。それで、助けを求めている』
『で?』
『お前、ロボスという男に覚えはないか』
『知らねえな』
 吐き捨てるように言うと、ハザは背を向け、調理場に戻った。
樹海の魔