「御陵くん」
 茫然と呟く黒木。その異様な面持ちに、俺は立ち去ろうとした足を止め、引き返した。
 黒木の背後から携帯を覗き込む。
 画面に映った、<非通知>の表示。鳴り続けるトルコ行進曲。
 それを目にした途端、なぜか俺まで胸騒ぎを覚えてしまった。
「本当に?───」
 訝しがる俺。だって、携帯、持ってないって……だが黒木は全く耳に入らない様子で、電話を取ろうとした。
 そして通話キーと電源オフを間違えそうになる。手が震えてるぞ、おい。
「バカ、それ電源!」
 はっ、と我に返る黒木。
「そこだよ、左!左!」
「あもっ───もしもし!?」
 噛んだ!
「……………御陵くん……探したよ……」
 暫しの沈黙の後、黒木は俺から表情を隠すようにして、呟いた。心底ほっとしたような、逆に落胆したような、そんな感じの声だった。そのいずれにしても、俺の中の黒木の印象と全く違っていた。
───なんだか、黒木じゃないみたいだった。

 そのおよそ一時間後。
 御陵ヒズルと周蓮次の二人は市内を出ていた。黒木柳介が待つ、うらすぎ村を目指して───

 白とオレンジが目に痛いほど照らしてくる高速を抜け、車はやがて山中の国道へと下りていった。
 鳴らしていたFMの電波が途切れ途切れになり、チューニングをいじっても雑音しか聴こえてこなくなった。
 オレは舌打ちして、シートに深く凭れ掛けた。運転席の周を見る。オレの視線に気付いたのか、動かない横目でちらりと見返して、口を開いた。
「久しぶりだろ、この道」
「───覚えてねえ」
 オレは言った。本当だった。
 パーティーで外出するのはたいてい夜だったし、その頃のオレときたらクスリにはまっていて、現実を記憶する能力が狂っていた。正直、周以外の連中の顔だってひとりも覚えていない。ましてや道順なんて。
 今オレ達は、かつての自分達の拠り所───天使の王国の施設の方向を目指していた。山奥の、山の頂上近くにあった真っ白な城──いや、檻と呼ぶべきだろうか。ただし建物は残ってはいるが、そこに信者はひとりも居ない。 信仰のためではなく、まだ続いている裁判の、証拠物件のひとつとして、その意味だけで存在している。
 しかし正確な目的地はそこじゃなかった。目指しているのは、施設と近距離にある、うらすぎ村という場所だった。
 どうしてそこへ行くことになったのか?その答えは───
「黙ってたのか?」
 ハンドルを握った周が前を向いたままオレに訊ねた。道は直線で、信号もない。淡々と進んでいく。
「何を」
 オレは素足を出してシートに踵を乗せた。
 借りた車は、ここ10年売れ続けているとかいう、一番メジャーな車種だ。
「恋人にさ。携帯持ってるの」
「……恋人じゃねえ」
「携帯、買ってくれなかったんだろ?匿ってくれて、飯も食わせてもらって、欲しいものは何でも買ってくれたのに、それだけは駄目だったって?───賢いやり方じゃないか。恋の駆け引きとしちゃ。なあ」
 オレの持っている携帯は、元は黒木のものだ。一緒に暮らし始めた頃、オレが携帯を欲しがっても何かと理由をつけて与えなかったから、それならと思って黒木の携帯を盗んだ。
 すると黒木はなくしたと思い込んで、新しい携帯を買った。───オレが盗った携帯の解約はしないまま。信じられないことだが、奴は未だに、二台の携帯電話の使用料を払い続けている。オレも最初は悪戯のつもりだったが、黒木が気がつかないのならそのままでも悪くない気がして…今に至る。
「携帯ってのは一番手軽なアリバイだからな。恋人に持たせるかどうか、もしも自分に選択権があるのなら、持たせないほうが相手を縛りやすい」
「…そうかね」
「連絡がとりにくい状況の方が、うまくいかないだろうってお前も思うか?」
「まあな」
「じゃあ聞くけど────お前、この一年で浮気、したか」
「はぁ?」
 呆れるオレに、周は続けた。
「してないよな。ということは、あいつはお前をずっと縛れてたってことになる。実際、お前はそうやって手にしてても……」
 周は顎でオレの携帯を指した。
「結局それは相手名義の携帯なんだから、やっぱりそうだ。お前の負け」
「?」
 言ってる意味がわからず、オレが怪訝な顔をしていると、周は小さく笑ってから、やめだ、と呟いた。
「これ以上言うと、お前の恋人を弁護しちまう」
「恋人じゃねえって言ってんだろ───…してただけだ」
「ん?」
「セックスしてただけだよ」
 オレは言葉に意味を込めないように吐き捨てた。黒木とのことを、くどくど説明するのが嫌だった。久々に会って、周がどういう奴か、オレは忘れかけていた。離れている間、オレが他の男と暮らして、寝ていたと知って、キレたり嫉妬するような奴とは思っていない。大体、オレを捨てたのは周なんだ。
 しかしオレが周の立場なら、黒木の存在は気にならないわけはない。
 でも、嫌だった。こいつと、黒木の話をするのは。───しかし。