「何なんですか、あんた」
「いいから。ね?ちょっと静かにしてなさい」
 俺の肩を掴んで座れ、と押さえつける男のサングラスがずり下がる。そこで初めて、俺は男の異様な左目を見た。息を飲む。俺の反応で察した男は、にや、と笑ってサングラスを持ち上げた。
「───怖かった?」
「いえ……」
 俺は何と答えていいかわからず、とにかく大人しくすることにした。

 俺と周は受付の控え室のような部屋の入り口から、遠巻きに、黒木達の様子を覗いた。
 玄関に突っ立ったまま、動かない二人は、淡々と会話をしている様子だった。わかるのは様子だけで、何を話しているのか、内容も、声すらも聞こえてこなかったが。
 黒木は背を向けている。こっちからは御陵の顔しか見えなかった。しかしその表情も、特に変化はない。
 だが突然、黒木の腕が素早く動いた。───殴る?
 黒木の手が、御陵の肩を掴む。
「うわ…」
 殴る?怒鳴る?───と、思ったが、違った。肩を掴んだまま、黒木は前へ進む。おずおずとためらうように御陵の肩を抱いて、互いの身体を密着させた。黒木の肩に、御陵が額をくっつける。すると黒木は御陵の両肩に触れたまま、一旦引き離したかと思うと、静かに、御陵の唇に自分のそれを重ねていった。
「───!」
 俺は思わず身を引こうとした。が、目を離すことが出来なかった。
 御陵は、黒木の腕の中で大人しく口付けを受けていたが、やがて腕を伸ばし、黒木の肩を抱いた。
 しかしそれは一瞬で、黒木はすぐに唇を離した。
 「え…」
 俺は驚いて、うっかり声をあげていた。と、同時に、気まずくなった。後ろに居る周は、これをどんな思いで見てるんだろうか。そっちも気になる…が、なんだか怖い。後ろを、向けない。
 唇を離した黒木は、名残惜しむように御陵の身体を一度強く抱きしめ、それきりで離れた。もう二度と近付くことの無い距離が、定まる。
 黒木の顔は見えない。それなのに、俺は何故か胸の奥におかしな感覚を覚えた。こう…強い力でぎゅっと絞られる感じだ。あまりに意外だったからだろうか。黒木のことだから、恋人が家出して、浮気して、別れ話なんか持ちかけてきた日には、とんでもない事をしでかしそうに思っていた。
「………なんだ、あいつ。意外に本気だったんだな」
 やんわりしているが、どことなくカンに触る声が背中から聞こえた。煙たい。俺が振り向くと、周は指の間に挟んだタバコをひょい、と上げて首をかしげた。
「お兄さんも吸う?」
「いや…」
 俺はタバコの煙が、昔から苦手だった。
「へー。お兄さん、広告屋さん?」
 周はすいっと手を伸ばして俺のスーツの襟についたバッジをまじまじ見た。何でわかるんだ?!
 同業者にも見えないのに…ゾッとした。
「霊媒師に代理店ね…お兄さん、あいつとどういう関係なの」
 面白そうに周は詰め寄ってきた。気のせいか、顔の距離が近い。俺を分析するぞとでも言うように、見つめられる。
 視線から逃げようとして、薄いサングラスの奥の左目をつい見てしまう。身がすくむ。
「怖い?」
 周の声が耳元で囁いた。ひ〜〜〜

────ガチャン!!

 突然、周の背後の奥から、何かが割れる音が響いた。音のする方へ無意識に視線がいく。
 バラバラに割れた湯飲み茶碗が、熱い日本茶の海に溺れ、うらすぎの焼印の入った饅頭がふやけようとしている。その離れたところに、漆の丸盆が鈍く回転しているところだった。落とした犯人は──思った通り、大河内だった。
「大河内さん!」
 大河内は、ロビーへ入る手前で立ち止まったまま、石化したように立ち尽くしていた。
「……あらら。あんた確か」
 振り返った周が驚いたように言った。しかし、大河内の視線は周ではなく、玄関にいる、御陵に向けられていた。
 周がふらりと大河内に近付く。大河内は動かない。半開きの唇が、震えている。
 一体、どうしたんだ?
「………………一夜?」
 いちや?
 搾り出すように発した。いちや?何?
 つい、俺まで玄関ロビーに出て行った。いちや、と大河内がもう一度はっきりと口にした。それが、人の名前であることに、俺はやっと気がついた。
 
 大河内の視線の先では、御陵が凄まじい形相でこちらを向いて、佇んでいた……