再び場面はうらすぎ村のキフネ達。

「あたしの経験なんですけどね」
 大河内が声を潜めて俺に言った。俺達はまだ、ペンションうらすぎの和室に居た。時間はいつの間にか深夜2時を過ぎていた。夕方にペンションに拉致されて、温泉に入って、飲んで、酔っ払って天狗に会って…いろんなことが起こり過ぎて、俺にはもはや時間の感覚が無い。物凄く疲れている気がした。大河内組のスタッフはもう用も無いので全員出払ったが、大河内だけは何故か残っていた。部屋の中央の座卓を挟んで俺と大河内が座っている。黒木は………部屋の隅で、俺達に背を向けて正座したままだ。さっきから一言も喋ろうとしない。
「暗いな…」
 俺は呟いた。恋人の電話があってから、ずっとこの調子だ。黒木の恋人、御陵は信じられないことに、俺達と同じ県内に居た。それもここから車で二時間ほど離れた市内だという。そして、今からここに、黒木のいるうらすぎに、やって来るのだという。
───話がある。
 そう言っていたらしい。
「あたしの経験なんですけどね」
 向かいに座った大河内が身を乗り出してきて、繰り返す。
 俺は、話しかけられて心底不愉快だという表情を崩さず、横目で大河内を見た。
「家出した恋人が戻ってきてする話。これ、ひとつしかないと思うんですよね」
「はあ。そうですか」
 俺は横を向いたまま応じた。しかし、大河内はしつこい。
「別れ話ですよ!別れ話!」
「……だから、あんなに暗いってんですか?」
 黒木は柱に頭を擦り付けるように背を丸め、動かない。探し求めていた恋人にいよいよ会えるというのに、喜びとは正反対の感情が流れていた。温泉で、恋人とのエロ話にニヤついていた黒木はどこへ行ったんだ?
「しかし、キフネさんはラッキーでしたね!」
「は?」
 何が?
「え…だって」
 大河内は俺を見て、黒木に視線を送った。
「付き合ってるんでしょ?御二人」
「は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜?」
「違うんですか?」
「な訳ないでしょ?!どこからそういう話になるんですか」
「だって、温泉で」
「!!!!!」
 俺の脳裏に、温泉でやらかしてしまった痴態が蘇る。顔面に血が集まってくる。
「………」
 確かに、疑われても仕方がない事実があった。でも、俺と黒木がそういう関係だったから、という事じゃない。
 それを弁明したい。が、どう話したらいいのかわからない。
「見てて思ったんですけどね、黒木さんには意外と…キフネさんのほうが相性が合ってるんじゃないですか?キフネさん、そういう格好されていると地味ですけど、脱ぐとわりかし…ぐっと来るものがありますものね。結構、色白ですよね〜?あとお尻も綺麗で引き締まってて…ポイント高いですよこれは」
 調子づいて話し続ける大河内を、俺は睨み付けた。気色悪い、とかいうレベルではない。呆れ返る。
「───出演、やっぱり駄目ですかあ?」
「絶対お断りです」
 俺はキッパリと言い放った。話に応じるとそっちへ持って行くんだな。よしわかった。今後は無視だ。
「………温泉」
 ぼそ、と呟く声がして、俺は部屋の隅へ目を向けた。黒木が僅かだか、顔を上げていた。
 振り向かなかったが、言葉が続く。
「温泉のせいですよ」
 その意味を理解しようと、俺は尋ねた。
「何が、ですか」
「さっきの話の…僕とキフネさんがおかしくなったのは、あの温泉に入ったせいです」
 そうですよね。大河内さん───呼びかけながら、黒木は大河内の方を向いた。言われた大河内は慌てて黒木から目を逸らす。しかし俺が詰め寄った。
「説明しろよ」
「や……だから、その……」
「何が入ってたんですか?」
 黒木が言うと、大河内はあ、とかう、とか呻いてから、答えた。
「ええと…バイアグラと……マカとか…にんにくとか…サボテンとか…赤まむし酒に…リポDとか…?」
 なあああああんだ、それ!!!!!!
「催淫効果のあるものを片っ端から入れたら、全体的に茶色くなって匂いもおかしくなっちゃって…それを誤魔化すために、最後に温泉の素を大量に入れた、だけ、です……」
 だんだん声が小さくなっていく大河内に、俺は例えようのない怒りを感じていた。
「…………」
 立ち上がって、無言で大河内を凝視した。
 サングラスの奥で、必死に目を伏せる中年を見下ろす。どうしてくれようか…!
「アンタなあ」
「わ、悪かったと思って…ます…」
「何か起きたらどうするつもりだったんですか」
「え、いや、死んじゃうようなものは入れてないし…大丈夫かなって」
「………あんた、そんなんでよく社長なんかやってますね。責任とかそういう感覚、ないんすか?」
「訴えますか」
 眠そうな目で黒木が言った。大河内の血相が変わる。
「黒木さん」
「ひぃぃ」
 大河内は腰が抜けたように尻餅をついた体勢で、後ずさった。
「裁判だけは、ご勘弁を…!あたし、あたし、裁判所だけは苦手なんですぅ」
「そうでもしないと、この先もあなた、また同じ事をしでかすでしょうが」
 黒木の言うとおりだと思った。そういえばこのオッサン、前にも裁判沙汰になったんだっけ。それでも懲りずにこういうことをしたってわけか。
 俺と黒木に挟まれて、大河内は縮こまって震えていた。本当に、どうしてくれようか。
 しかしその先の展開は、次の瞬間阻まれてしまった。
「社長──車が着きました」
 背を向けていた障子が開いて、大河内組の人間が入ってきた。
「黒木さん」
 俺は黒木の顔を見た。眠そうな顔が、わずかだが、緊張しているように見えた。