「なるほどね」
 周はそう言っただけだった。表情には何も変化がない。オレはそれに苛立った。
「そう言うてめえはどうなんだよ?───あっちでさんざん豪遊してたんじゃねーの?組織の金使ってさ」
 オレは頭の隅で、期待していた。周は、悪党だ。頭が切れる上に、気が違ってる。いつも誰かを裏切っていないと安心できない。自分の幸福は他人の不幸の上にあるのが当然。そんな奴だ。オレと離れている間、こいつは南米に居たらしい。南米でこいつがどんな暮らしをするのか、オレには簡単に予想がついた。ホテル暮らし。カジノでギャンブル、酒、クスリ、女……
 しかし周の反応は、軽く笑い飛ばすだけの拍子抜けしたもんだった。
「豪遊ねえ。そんなのとは縁がなかったな、とんと……」
「嘘つけ」
「この一年は───まあ、追々話してやるよ。今は勘弁してくれ。あっちを出てくるのにも、こっちに入るのにも、この手の話をし過ぎてね。ちょっと食傷気味なんだ」
 オレは周の横顔を見た。暗い車内を街燈が照らして、商店街の中に入ったことを知る。暫くぶりに出会った赤信号で停止しても、真夜中の田舎の商店街には車の通りもなく、人通りも皆無だ。止まらなくてもいいだろう───大体のヤツが遣り過ごすところに律儀を通すのが周だった。
 右手をハンドルに軽く乗せ、のんびりと信号を待つ体勢の周は、そこら辺にごまんと居る奴と変わらない。電車のホームにぼーっと突っ立って到着を待ってる、大勢の中の一人。そんな感じだ。
 でもこの車を借りるのに、嘘の名前と嘘の免許証が使われた。そして架空の人物がオレの目の前で演じられた。 
鈴木二郎って誰だよ。会社員って、どこのだよ。
 車が走り出して、オレはつい、大げさな溜息をついた。
「で?大丈夫なのかお前」
 ハンドルを右に切りながら、周は言った。標識に、<うらすぎ村>の文字が見えた。
「何が大丈夫って?鈴木さん」
 わざと大きな声で聞き返した。
「───突然家出して、俺を連れて戻って、それで納得するのか?向こうは」
「あぁ…」
 言われずとも、オレはそれを考えていた。が、どう考えても───答えは同じだった。
 オレは周と行く。
 黒木は…あいつも性格がわからない奴だが、ひき止めはしないと思う。黒木とはほとんど毎日のように寝ていたが、オレが周の話をしたことなど、勿論なかったから、驚くだろうが。でも周がオレの前に現れたから、オレが黒木の所に居続ける理由はなくなっている。それでわかってもらうしか、今は思いつかなかった。
───捨てられる。裏切られる。
 それらを受け入れることがどんなものか、オレは知っている。知っているから、黒木がどれだけ頭がイカレた奴でも、傷付くだろうと思う。別れるなんて言ったら、きっとあいつはとぼけて、とぼけ倒すだろう。聞かなかったふりをするだろう。でも───最後にはオレの言うことを聞くんだ。いつもそうだ。
 御陵という偽のオレの名前を呼んで、愛してるだの何だの、うっとおしかったが、夢中になっているようでも、どこか醒めている部分が、黒木には見えることがあった。身体と気持ちを全てぶちまける相手を、強烈に欲しながらも、自分のような人間では到底無理なんだと、諦めているような───そうだ。
 黒木のそういうところが、今、凄く気にかかってるんだ、オレは。
「迷ってるな」
 つい考え込んでいたオレに、周が声を掛けた。
 そんなんじゃねえ、とオレが言い返そうとすると、車が急ブレーキを踏んだ。
「!?」
 がくん、と身体が前に揺らいで、後ろに引き戻される。気がつくと車道を外れた暗がりの砂利の上だった。
「危ね!…どうし…」
 ガチャリ、とせわしない音がして、突然周がオレに覆い被さってきた。
「周?」
 オレはシートに両膝を曲げて座っていたのだが、その間を割られ、シートの背を倒されながら周の身体がオレに密着してくる。急に増してくる重みに呻きながらオレは周の顔を見上げた。
「何、盛ってんだよお前」
 咎めようとして、斜視に射すくめられる。その隙に、唇を塞がれた。
「…っ……!さっき…、…した…だろ」
 足掻くオレの脇の下に、周の手が滑り込んでくる。腕をまわされて、口付けられながら力を込められる。クセ毛のオレの髪に何度も指が梳かれ、制しようとする手にも愛撫の指が絡まってくる。顔を逸らそうとすると、顎をそっととられて深く舌を入れられた。
 周の思惑が理解できずに、オレはその始終を薄目で見続けた。暗い視界で、周の唇のふちと、オレのそれがぴったりと密着する感じだけがなまなましい。歯と舌が擦れ合う小さな衝撃。目を閉じた周の顔をまじまじと見つめた。こいつは昔から表情が少なくていつも淡々としているが、こういう時は意外に表情を変える。目の下がすぐ赤く上気して、泣きそうな顔になる。それを誤魔化すために、最中は目を閉じている。オレ相手に赤面するのが恥ずかしいらしい。でもそんな時の周の斜視は、見ていて妙に引き込まれるのが不思議だった。紅潮しているのに、死んだみたいに動かない黒目を見ながらイくのがオレは好きだった。本人には今まで言ったことはないが、いざバラしたらどんな反応をするだろう?
「…?」
 ふいに唇がはがされて、オレは薄目をやめて周を見た。
「何笑ってる」
「………別に。また目赤くしてんのかなって」
「…………お前の顔が、やらしいからだ」
「へっ……───あ」
 いつの間にか胸の下に手を差し込まれていた。撫でられて、きつく摘まれる。無意識に仰け反ってしまう。痛みでしかない刺激は、与えられるごとにオレの中の火を煽る。そこは、黒木にも何度も責められた場所だ。でも、受ける感覚は違う。周の、体温のせいか?それとも、匂いなのか?奴のシャツ越しの肌を思う。死に際みたいな冷たい肌。指は剃刀の刃のようだった。触れる瞬間はぞくりとして、離れると強い熱を帯びる。心臓はバクバクして───
 もう片方を指先で引っ張られるともう、駄目だった。熱が、オレの身体の外から出たくて暴れ始める。
 くそ。黒木が待ってるってのに。
「てめえ…この、悪党」
 止まりそうになる息を継ぎながら、オレは周を睨みつけた。
「迷ってるからなお前。今のうちに考えを変えないようにさ───俺のいない間、そいつにどこをどうされた?何回いかされた?……今からそれ、抜いてやろうか」
「冗談…」
 何か言い返そうとしたが、周の手がそれを阻んだ。
「ぁ……!」
───移動に、タクシーじゃなくレンタカーを選んだ周の狙いを、オレは思い知っていた。