『この地がアルヴァロンとなる前に、この地に暮らしていた民の名だ。彼らの血は古く、この地にエルフが降り立つ以前からある。余という存在を生み出したのも彼らだ。エーン・ソルフの民は自然を尊び、怖れ、象徴を作った。はじめそれは意味を持たなかったが、人々が象徴に対する信仰を基に行動していく中で、意思と実行力を持つ“精霊王”として便宜上の実体を得た。それが余、アルスだ。……お前たちの定義する“神”とやらに相当するかもしれぬが、余はお前たちの神のように、信仰を強要しておきながら罰を与え、万能でありながら善悪を作り、慈悲と地獄を作るようなことはせぬ。
余は、求める者に望むものを与える。なぜならばそれが、余の存在意義であるからだ。…余のすべては、求める者あってこそ、生かされる。そしてエーン・ソルフの民は自然を共有する生き方を望み、余は彼らの望みに全て応じた。……それは深海と氷雪の彼方からエルフ達がやって来た後も変わりはなかった。それどころか、エルフ達はエーン・ソルフの民よりも卓越した霊力を持って精霊界と接触できたために、余の存在はより増幅していった。変化が起きたのは、アルヴァロンの祖先がこの地に現れてからだ』
 セヴェリエの心に、アルヴァロンの血塗られた歴史が浮かんだ。弾圧されたエーン・ソルフの人々…聖オリビエ教徒に改宗させられた人々の姿。彼らの末路はどうなったのだろうか。
『エーン・ソルフの民から余への信仰が失われた影響で、余の力は衰え始めた。その隙に、アルヴァロンの王達は邪悪な炎で聖なる森を破壊し、鉄の楔を大地に打ちつけ、王国を築き上げた。エーン・ソルフの民は奴隷としてアルヴァロンに使役され、奴隷制度が消えた後も、生活を差別され貧しい階層に貶められていった。……そしてやがて、救いのない状況で彼等はふたたび余の力、自然の力を思い出した。 病や傷を癒す薬草の調合法、毒からあみだされた避妊法は貧しい生活環境で子供の数を制限するのに役立った。そして、森を焼かず必要以上の害虫を寄せずに作物を育てる術。鉱石と水の神秘学。 その基礎は素朴に人をよりよく生かすほか、用途はなかった。……にもかかわらず、お前たち聖オリビエの信徒はそれを悪魔崇拝として迫害し始めた。 お前たちは結束してエーン・ソルフの民を拷問にかけ、処刑していった』
 ふとアルスの手がセヴェリエの頬を撫で、顎を持ち上げた。そうしてセヴェリエを見下ろしたまま、唇が言葉を紡ぐ。
『そこでは、お前の父と母も村の司祭に告発を受け、殺された。お前はその名を知らぬだろうセヴェリエ───お前の父の名はモルデン。母の名はセルマ。村に流行った病を、エーン・ソルフに伝わる薬草で治療したところを疑われ、悪魔つきの拷問にかけられた』
 アルスに顔を触れられたまま、セヴェリエは戦慄した。心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、全身が硬直する。
『───嘘だ…』
『お前はまだ幼い子供だった。それが悪魔つきの混乱のさなかに何者かに密かに連れ出され、あの修道院に運ばれたのだ。……それから20年の月日が流れた。お前は何も知らずにあの刃の丘で成長し、皮肉にも、己の祖先と敵対する聖オリビエ教の修道士の道を歩んでいる』
『嘘だ!嘘だ、嘘だ、嘘だ。そんな、そんなことが…あるはずが……長老様は、何も』
 セヴェリエは頭を振り、搾り出すような声で喚いた。
『言う必要があろうか?お前の出生を知るのは修道院では長老ただひとり。他の修道士は何も知らぬ。知られれば、お前の命はそこで尽きていたであろう』
『そんな……!』
『セヴェリエ。お前はエーン・ソルフの民の中でも最も尊い家系の血を継ぐ───エーン・ソルフの王の資格を持つ人間だ』
『………』
 気が遠くなっていく。セヴェリエは体の奥底から沸き立つ震えを、抑えることが出来なかった。
 今まで信じてきた自分の過去は、全て嘘だったというのか────戦災から避難するために両親から引き離され、その後二人とも戦火に見舞われて死んだと聞かされてきた。少年のセヴェリエがその悲しみを耐えて生きてこられたのは、ほかならぬ修道院の長老と、周りの老修道士達の支えがあったからだ。
 セヴェリエの両目に、涙が滲み出した。自分は、裏切られたのだろうか?迫害すべき人間を手元に引き取り、事実を隠して育てた長老の意図が、セヴェリエには理解することができなかった。
 それはたった今告げられた、自分の出生の真実にしても、同じことだった。
 エーン・ソルフの名すら、セヴェリエは知らなかった。 聖オリビエ教徒による魔女狩りの事実も、初めて知った。
『エーン・ソルフの民に対する迫害はそれからも続き、終わることはなかった。そして衰えた余の力では、事態の収拾は不可能だった。余はエルフ達を使いアルヴァロンの蛮行を阻止しようとした。……しかし、エルフは余に従わなかった。彼等は争いを頑なに嫌っていた。エーン・ソルフの民の苦しみを救うより、彼らに重要なのは一族の主義と誇りだった。その後彼等は余との交信を禁忌と定めた。余の力はますます失われ、余の存在は消滅の危機を迎えた』
 窓から入ってくる風に、冷気が帯びていく。気のせいか、アルスの言葉にも、抑揚が失われていった。
『そこで余は、フェルマールとリラダンを放った。ダミアロスの心を虜にし、灰化病を撒き散らし、人の心を狂わせるエーテルでアルヴァロンを殺戮と破壊の饗宴に変えた────我がしもべ、エーン・ソルフの民の復讐のため。そして、精霊界の存続のために』
 窓硝子が風に打たれ、大きな音をたてた。遠くの方で雷鳴が光った。
『────お前が、アルヴァロンを…』
『この地は、余の存在なしでは滅びる。愚かなアルヴァロンの民は、愚かな神の信仰の元で、永遠に世界を破壊し続けるだろう』
 黄昏の部屋が闇に包まれた。光が消え、セヴェリエはアルスの姿を探した。
 ところが闇はますます深く淀み、部屋の中の輪郭さえも見えなくなっていった。
 一切の音が消え、セヴェリエは恐怖を感じた。体に感じる空気が、どんどん冷えていく。
 セヴェリエは、長椅子の手摺をかたく握り締めた。
エーン・ソルフ