別離
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 長い夜が明け、樹海にも朝の光が差し込んできた。
 王の墓の闘いは、ゾルグ達の勝利に終わり、重傷者もなく、全員で苔穴に戻ることができた。
 無事を喜び合う祝杯の備えなどなかったが、ボルカシアの姿があるだけで、苔穴の人々の顔は歓喜に満ちていた。ゾルグが初めて苔穴に足を踏み入れた時は亡霊のように生気のなかった難民達の顔が早朝にも関わらずみるみる活気を取り戻していくのを見て、ゾルグはボルカシアの存在の大きさを知った。賑わいが落ち着くと、ラウールがボルカシアとトロス達を、苔穴で最も広い礼拝室の中に集めた。
『ゾルグ』
 皆が部屋に入っていく中、ゾルグは一人所在を失くしていたが、ラウールに呼び止められた。
『暫く外で休んで待っていてくれ』
 部屋の扉が閉まるのを、ゾルグは見守った。そこに中年の男が近寄ってきた。苔穴の民だった。ラウールに指示されたらしく、ゾルグを別の個室に案内するという。洞穴のような通路を歩き、入った個室には、テーブルの上にわずかな食物と、あの苔茶が置いてあり、床の上には大きな水瓶も用意されていた。
 男が去ると、ゾルグは槍を壁に立て掛け、息をついた。
 久々の実戦だった。剣を棄てて、もう何年にもなる。戦いの能力は衰え、逃げ足だけが速くなったと、自分では思い込んでいた。“槍使”───槍を扱う連合軍の兵士の中でも精鋭の者を指すその名を、かつてはゾルグも呼ばれていた。もっとも、聖エーテルが跋扈する以前までの話であったが。まだその頃は、緑の連合軍は誇りを持った戦士の集団だったのだ。
 ゾルグは帽子を取り、テーブルの上に置いた。気がつくと、随分返り血を浴びていた。上着を脱ぎ、皮の手袋も脱いだ。水瓶に手を伸ばそうとしたところで背後の扉が開いて、振り返った。
『待たせたな』
 立っていたのは、ラウールだった。武装は既に解いて、上着の胸元を寛げている。ゾルグより一回り年上に見えたが、筋肉の付いた体格に反して顔付きは柔和で、心根から陽気そうな性分が滲み出ていた。ラウールは近付いてくるなり、ゾルグの左手に注目した。
『それは?』
 訊ねられ、ゾルグは思い出したように左手を持ち上げた。薬指には、柘榴の指輪が嵌められていた。長い間外されていないせいか、銀の鶫の彫刻はすっかり擦り切れていたが、柘榴はいまだ鈍い光を放っていた。
『女か?許婚か』
 好奇の目を向けるラウールに、ゾルグは首を振った。
『………いいや』
 指輪に目を落とすゾルグの脳裏に一瞬、その顔が過ぎった。が、もうはっきりとは思い出せなかった。名前も、忘れた。今まで身につけていたことに、自分でも驚いていた。この指輪も、槍使の思い出と共に、ゾルグの封じていた過去を呼び覚ますものだった。
『お前の戦いぶりは、見事だった』
 ラウールは指輪への関心を手放すと、テーブルの傍の椅子に腰掛け、言った。
『緑の連合軍だった───そう言っていたな』
『ああ』
『トロスにも話を聞いた。……ヘルターだそうだな』
上目に見られ、ゾルグは俯いた。それを見て、ラウールは笑みを零した。
『聖エーテルの虐殺から逃れ、落ちぶれたなれの果てというわけか───』
『………』
『ヘルターとして野で朽ちるより、我が軍に末席でも身を置き、わずかな栄誉にあやかりたい。そんなところか』
 揶揄するような口調に、ゾルグは困惑して返す言葉がなかった。
『からかうのはそこまでにしておけ、ラウール』
 その時声がして、ボルカシアとラウールの仲間が入って来た。ボルカシアは凛とした表情で、ゾルグの前に立った。
『悪気はない、許せ。───今、仲間とそなたの事を話し合った。そなたに我らと共に行く意志があるのなら、歓迎しよう。そなたの過去は問わぬ。私も、この者達も、今は身分も階級もない。出身もだ。今は皆が同じ志を分かつ戦士だ……是非とも、我らに力を貸して欲しい』
 頭を下げるボルカシアの背後で、皆が同じ面持ちでゾルグを見ていた。ラウールが立ち上がり、傍へ寄ってきた。
『なに、実を言うとこの俺も、元は歩兵から落ちぶれた放浪人さ。ヘルターあがりも、この中に居る。ダーイェンではそれ以上。素性など、気にするほど馬鹿馬鹿しいことはない』
『………俺で良ければ』
『ハハ、謙遜なことだ』
 ラウールは笑い、ゾルグの肩を叩いた。
 ボルカシアがその横を通り過ぎ、部屋の奥へ進む。そして全員を見渡すと、言った。
『扉を閉めろ。───では。新しい仲間を迎え入れたところでもう一度説明しよう。我らのドリゴンを取り戻す、その計画についてだ。ラウール』
 名を呼ばれ、ラウールはボルカシアの隣に立つと、ゾルグに一度目を向け、表情を引き締めた。
『現在、アルヴァロンの東南東の谷に、我らの仲間が集結している。二日後、我らもそこへ合流し、そのまま───ダーイェンへと進軍することが決定している。谷への道は荒く、移動に一日を要する故、明日の早朝には苔穴を出る』
『進軍だと?』
 ゾルグは驚いた。
『一体どれだけの兵が集まっている』
『谷で待機しているのはおよそ500だ。ダーイェンの合流地にはもう500───全ての兵が、ボルカスを待っているのだ。それだけではない、ダーイェンの援軍が2000はつく』
 ゾルグは思わず、ボルカシアの方を見ていた。鷹のような勇ましさを秘めた女騎士、というよりは、一国の大将のような気風だった。もしもこの先アルヴァロンに女王が現れるとしたら、こんな人物だろうか───ゾルグは感嘆を覚えた。
 3000の兵で、東の都に攻め入る───叶わぬ夢のような話が、実感を持って語られている。
(───リラダン)
 仇の名を、繰り返した。禍々しい虐殺の夜の記憶が、五感を伴って蘇る。そして、その息子のロランを思い出した。荒野で別れた、ロクサネのことも。彼女は、無事なのだろうか───