『ロクサネは、息災だったか』
 ゾルグが追いついてくると、ボルカシアは言った。余程ロクサネのことが気にかかるらしい。それを推し量ったのか、ボルカシアは話を続けた。
『あの兄妹は、私の家に仕える家臣だった。ドリゴンでは二刀流の剣術を伝承する名家だったのだが、当主であった父親が病で急逝したせいで幼くして家を失くし、母親と共に私の家に引き取られた。私の家は母が王家の女官長を務めていて、家を空けることが多かった。そのため、私はロクサネとロボスの母に育てられた……私達は、兄弟も同然だったのだ』
 ボルカシアはやはり、王族に関わる人間だった。そして、ロボスとロクサネも。しかしそうなると、疑問が浮かんでくる。
『………ロボスは何故、緑の連合軍に』
 ボルカシアの顔が曇った。
『成長するにつれ、私達の間には溝が生じていった。身分の差というやつだ。私も私の母も、ロボス達の将来を案じて後ろ盾する心構えだったのだが、ロボスはそれを拒み、家を出た。それから便りもないまま時が流れ……次に再会した時には、既に連合軍の兵士になっていた』
 ゾルグの脳裏に、緑の連合軍の光景が蘇った。初めてゾルグが連合軍を見たのは、緑の腕章をつけた兵士が大勢で行進する姿だった。知っている顔が、戦士の顔になっているのを、憧憬の目で、見ていた。
 ボルカシアの話は続いた。
『私には衝撃だった。幼馴染と、まさか敵対することになろうとは。緑の連合軍は、リラダンの指揮の下、王侯を憎んでいた。封建社会を崩し、民主的な社会を力ずくで興そうとしていた。ロボスはいつからそのような考えを持っていたのか───三人が、兄弟のように育ったと思い込んでいたのは、私一人だったのか、と。裏切られた気持ちだった。だが』
 ボルカシアはゾルグへ向き直った。
『違った』
『違った?』ゾルグは繰り返した。
『その後、ロクサネの手引きで私はロボスと密かに会った。そして聞いた』
 ボルカシアは声をひときわ潜めた。
『リラダンの居所だ』
 ゾルグは目を見開いた。緑の連合軍に居たゾルグも、その顔を知らぬリラダンの居所は、上層の側近達でも知る者が限られていた。一説では、実存しないのではないか、とも言われていた。そして、知ろうとする者はことごとく闇に葬られた。姿を公の場から隠しながら群衆を操るその様は、実存する支配者よりも根強い恐怖を植えつけた。
 ゾルグは言葉を失ってしまった。そのロボスは、聖エーテルの虐殺で死んだ。そしてその妹のロクサネは、今、薔薇の乙女としてリラダンの配下に居る。
『まさか…ロボスは、それを知ったせいで』
『ロクサネの話では、戦場から遺体は見つからなかったそうだ。ロクサネはそれまでずっと私と共に居たのだが…兄の死を境に私の元を去り、薔薇の乙女に娼婦として入り込んだ』
 ───密使。
 ゾルグは息を呑んだ。ロクサネは、余りにも無謀で、危険な状況に居るのだ。荒野で別れた時、見送っていた小さな影を思い出した。
『無事で居るといいが……』
『あれは兄以上に気が強く、抜け目がない。どうやら薔薇の乙女の大将にはたいそう気に入られている様子だ。我らの計画も大詰めを迎える今───ロクサネがそなたをここへ導いたのは、吉兆だと私は感じている』
 ボルカシアの口元が綻ぶ。
 ゾルグは頷いて見せたが、その大将がロクサネに斬られた事は、胸の内に抑えた。
 先の方を歩いていたトロス達が立ち止まっている。
 視界が開けて、海市館の姿が柳の木立の中に現れた。館の屋根が損壊しているのが見える。
『何が起こったというのだ……』
 ボルカシアが呻いた。
 ゾルグ達は歩みを速め、柳森の中へと進んだ。


 セヴェリエは、闇の中に蹲っていた。
 足元には澱んだ水が流れていた。光が射さないため、その深さも、どこまで続いているのかもわからない。
 水面からは真っ黒な霧が絶えずたちこめ、空気は腐っていた。
 寒かった。自身を抱き寄せ、両足をすり合せても、冷気が入り込んでくる。それなのに、体の内側───胸の中心は火のように熱かった。どく、どく、と血が煮えているような不気味な鼓動が伝わってくる。熱は次第に、痛みへと変わっていった。
 セヴェリエは胸を押さえた。息が苦しくなる。胸の中心が激しく痛む。汗が噴き出してきた。
 蹲った体勢を保てなくなり、ゴツゴツとした小石ばかりの地面に手をついた。胸を押さえていた右手を開く。
 血に染まっていた。
別離