『ひ───』
 セヴェリエは恐怖に慄いた。胸の中心から、赤黒い染みがみるみる全身に拡がっていく。恐ろしい速さで血が流れるのを見て、セヴェリエは悲鳴を上げた。体の力が抜け、意識が遠のく。
瞼を閉じると、誰かの顔が浮かんだ。輪郭は朧で、はっきりと誰かはわからない。背景は、どこかの室内に見えた。壁が崩れ落ち、地面が大きく揺れた。人物はこちらに手を翳し、何かを必死に叫んでいた。しかし、何を言っているのか、全く聞こえなかった。聞こうとすると、朧な光景がさらに霞んだ。
 こちらへ来い、セヴェリエ。
 はっきりとした声が聞こえた。セヴェリエは目を凝らした。いつの間にか、闇は消えていた。人の手が見える。
 こちらへ、来い。
 声はもう一度言った。誰の手だろう───声を聞いても、その手の主が誰なのかわからなかった。しかし、手の主の背後が、徐々に光を帯びてきた。セヴェリエは手を延ばそうとした。
 お前を救ってやるぞ、セヴェリエ。
 声は言った。
 それは、セヴェリエの心を再び恐怖に引き戻した。伸ばしかけた手をひき、逃げ出そうとして体を捻る。
───救う?
────私を?
 そんな事は────不可能だ。私にはもはや、救われる資格などない。私の肉体は邪な欲の味を覚え、魂は生まれながらにして呪われている。もう私は、戻りたい世界には、戻れないのだ。
<そうだ>
 すると別の声が、セヴェリエの背後の闇の方から聞こえてきた。セヴェリエは闇のほうを見た。吸い込まれそうに深い闇が口を開けていた。眩しすぎる光に比べ、闇は冷たかったが、眩しさよりはましに思えた。
<お前はもう戻れない。お前には救いは必要ない。何故ならお前は既に力を得た。余という力を>
 声に誘われるように、セヴェリエは闇の方へ向かった。
 光からの呼びかけは、聞こえなかった。
<余はお前───そしてお前は余となる>
 ────アルス。
 次の瞬間、セヴェリエを包む闇が血のように紅く変わった。胸を貫かれる激痛が蘇る。体が焼けるようだった。
 苦しみから逃れようと、もがき、這いずり回る。気は狂い、死を思った。───しかし、助けは呼ばなかった。
 誰も私を救えないのだ。誰も。

『………セヴェリエ………!』
 セヴェリエの閉じた瞼が震えるのを見て、ゾルグは身を乗り出した。
 海市館に入ってすぐに、ゾルグはセヴェリエが寝かされている二階の部屋へ向かった。待ち受けていたサラフィナスから、既に傷の手当ては終わり、回復に向かっていることを聞いた。寝台のセヴェリエは胸部に包帯を巻かれ、顔色は悪かったが、寝息は穏やかだった。ゾルグは安堵し、眠らずに看病を続けたサラフィナスを休ませ、代わりに自分がセヴェリエに付き添うことを申し入れた。
『忝い』
 サラフィナスは素直に応じ、別室へとさがった。エンデニールの容態は、深刻なようだった。ハザが付き添っていたが、エンデニールの惨い姿を目の当たりにして、とても言葉をかけられる様子ではなかった。
(一体、何が…)
 その後、カイエスとジヴラールに話を聞いた。しかし二人も混乱から醒めてはおらず、話の端々から理解できたのは、エルフの頭領であるレムディンがエンデニールとカイエス達を守り、そして何処へと去っていた───ということだった。
 レムディンに負わされた傷ではないのか。他に敵が居たというのか?────
 その場に緊張が走った。そして今、トロス、ヨルン、グレイ、シンディエ、ボルカシアの5名が、柳森の周囲を探索に出ていたのだった。
『セヴェリエ。大丈夫か』
 ゾルグはセヴェリエの顔を覗き込んだ。瞼が開いて、虚ろな瞳が暫く左右へ揺らぎ、ゆっくりとゾルグを認識する。
『俺だ。分かるか』
『…………っ』
 起き上がろうと身動きして、顔を引き攣らせる。それを、慌てて止めた。
『起きるな。傷が開くぞ』
 そっと肩を押し、寝台に寝かせる。セヴェリエは大人しく従った。
その様子を見て、ゾルグは思わず顔を綻ばせた。
『……良かった』
 セヴェリエの澄んだ瞳が、ゾルグを映していた。表情は無かったが、意識を取り戻した事実が、ゾルグに喜びをもたらした。そうして、セヴェリエが目を覚ましたら飲ませるようにと、サラフィナスから言伝されていた薬のことを思い出した。寝台の横の小さなテーブルの上に、その薬瓶はあった。ゾルグは足のない平らな杯に水差しの水を注ぎいれ、薬瓶の中の液体を一匙分ほど溶かし込んだ。それをセヴェリエに差し出す。
『薬だ』
 不安を和らげようと努めながら、ゾルグは言った。
セヴェリエが手を伸ばして受け取ると、そのまま手を離さず口の所で支えてやり、飲み干すのを待った。
別離