杯の中が空になると再びテーブルの上に戻し、ゾルグはもう一度、セヴェリエの顔を見た。唇は引き結ばれたまま、言葉を発する気配は感じられなかった。二人の間に暫しの沈黙が流れる。言葉を封じた相手に、何から話すべきか、何を知りたいのか───沈黙の間、ゾルグは思いあぐねていたが、ようやく口を開いた。
 一夜の間に起きた事───エルフ達の策略と、山賊達のこと、そして、ボルカシアのこと。東の地の現状と、ボルカシアと山賊達が、東の都を取り戻す為、反乱軍を結成し、ダーイェンへ向かおうとしている事───そこまで話し、ゾルグは間を置いた。セヴェリエは相変わらず無言のまま、ゾルグの話に耳を傾けていた。青褪めた蝋のような顔色だった。ゾルグは目を伏せた。そして言った。
『……俺は、ボルカシアについて行こうと思っている』
 再び、セヴェリエの顔を見た。かすかな動揺が浮かんでいた。
『反乱軍に加わり、彼らと共に戦うことにした………明日の朝には、皆と共に出発する』
『…………』
『セヴェリエ。───お前も、一緒に来ないか』
 セヴェリエの淡い水色の瞳が、大きく見開く。
『向かう先は見知らぬ土地で、目的は戦争をすることだ………決して安全な道ではないだろう。そして東の都へ辿り着けても、聖オリビエ教会は滅んでしまっている。お前の信仰の道は閉ざされたも同然……それでも進もうとすれば大変な苦難を強いられるだろう。だが』
 感情が胸の内に集まってくるのをゾルグは感じ取った。『だが俺は、お前をひとりにしたくない』
『傍にいれば、俺がお前を守ってやれる。───必ずだ。だから、頼む………俺と共にダーイェンへ行こう』
 ゾルグの声には、熱がこもっていた。激しく、身を焦がすような熱だった。セヴェリエは体を横たえたまま、困惑するように視線を逸らした。拒否してこのまま取り残されるか、それともダーイェンに行くのか。聖オリビエ教会の結末を知らされた以上、東の都に行かなければならぬ理由は消え失せた。しかし、かといって北の地に戻れる理由も───いまや無いのだった。
『……!』
 突然、ゾルグの手が伸びてきて、セヴェリエの手を握った。
 驚くセヴェリエには構わず、握った手を両手で包むように持ち上げる。『許してくれ』
 ゾルグの声は低く、震えていた。握る手に、力がこもる。
『俺はお前を、酷い目に遭わせた。その俺に守られるなど、お前は許さないだろう。でも俺は────俺は、俺以外の人間に、お前の身を任せたくない。お前に憎まれても構わない。俺は、お前を守りたい。ずっと傍に居たい』
 ゾルグの声が、セヴェリエの心に響く。遠くで鳴る鐘の音のように、染み込んでいく。しかしその度に、セヴェリエの顔は哀しみに染まっていった。ゾルグの最後の言葉は、セヴェリエを哀しみの淵の底へ沈めていった。
『俺は、今までずっと孤独だった。他人を信じる事も他人から信じられる事も顧みずにいた……お前と会うまで、俺はこのまま、ヘルターとして生きて死ぬと……何の望みもなく生きてきた。だがお前と会って、変わった。お前は俺に、生きるための希望をもたらした。お前は、俺の支えだ。俺の命を、お前の為に捧げさせてくれ………』
 ゾルグの手が、目を逸らしていたセヴェリエの顎に触れ、上向かせた。潤んだ目が、間近でセヴェリエを見下ろす。
呼吸が、鼓動が、近付いてくる。そのまま降りてくる唇を、セヴェリエは見つめた。流されてしまいそうだった。
 この口づけを受け入れれば、ゾルグとダーイェンに行くことを了承することになる。そう思った刹那。
『…セヴェリエ?』
 ゾルグの唇は、わずかな隙間を保ったまま、静止していた。その胸に、セヴェリエの手が伸びている。触れているだけだったが、次第にそれは重みを伴っていくようだった。ゾルグは顔を離した。セヴェリエの手の平から、ゾルグの体が遠のく。握られた手が静かに置かれた。
 ゾルグはそのまま無言で、俯いていた。再び、長い沈黙が流れた。
 セヴェリエはゾルグを見ることができなかった。目を伏せ、何も考えられず、ただ時が過ぎるのを待った。
『やはり、駄目なのだな。俺では……』
長い沈黙の後、打ちのめされたようにか細い声でそう呟くと、ゾルグは立ち上がった。
そしてセヴェリエの方は一度も見ずに、背を向けた。古惚けた皮のコートを着た広い背中が扉へ向かうのを、セヴェリエは見ていた。手が、扉の把手にかかった時、わずかに間があった。
『………………さらばだ』
 はっきり、それだけ口にすると、ゾルグは扉を開け、出て行った。
 気がつくと、セヴェリエは半身を起こしていた。そして茫然と、閉じた扉をいつまでも見ていた。
 ゾルグは二度と、部屋には戻ってこなかった。
別離