最初にあいつに出会った記憶というと、オレが走っているところを思い出す。
 どうして走っているかというと、逃げているからだ。
 オレは小学生だったのに間違いはないが、何年生かはもう忘れた。学校が三回変わって、どれに通ったらいいのかわからなくなって、面倒だった。で、オレが逃げているのはなぜかというと、そんなオレが家出なんてするから、お節介な大人の連中がオレを捕まえて家に帰そうと追っかけてくるからだ。
 あんなの家じゃなかった。オレの親父は、オレの知る限り世界一の最低野郎だ。
オレが物心ついた頃には、既に借金で首が回らなくなって、取立て屋から逃げるために家も職も、女も変えていった。
ある日、「おまえの新しいママ」と言って、四十近い片言日本語の女と、その女にそっくりな中学生と小学生、幼稚園児、赤ん坊から成る息子を四人も連れてきたのが、オレにとっての決定打だった。オレはその日の夜、親父の財布を持って身一つで家を抜け出した。

 親父の財布には現金が二千円しか入っていなかった。パチンコ屋のカードが数枚挟まっていたがそれを財布ごとドブに捨て、オレはとりあえず、半ズボンのガキが夜の繁華街なんかをうろつくわけにはいかないと思って、その晩は公園のトンネルと呼ばれる砂場の遊具の中で寝た。
 それから夜が明けて、日が暮れるまで街をうろついて、飯を食ったり電車に乗ったりしていたら、翌日の昼で有り金はなくなってしまった。どうしよう、と一瞬困ったが、オレにはまだ希望があった。
 最低最悪オヤジの元で暮らしながら、オレはひとつの大きな疑問を持ち続けていた。オレを生んだ母親は、ちゃんとした堅気の女だったらしい。それが何をどうしてオヤジと離れてしまったのか?これをオレは、オレの母親が実は大財閥の娘で、親が結婚に反対したとかなんとかで、オレとオヤジを捨てて母親は実家に戻ったのだと、推理していた。勿論それをオヤジに聞いてみたことはない。でも確実だと思った。それでオレは、いっぺん家を出て、さりげなく街を歩いていれば、突然、スーッと黒い外車がオレの前にやってきて、中から金持ちのじいさんが出てきてオレを屋敷に連れて行ってくれるに違いないと、思ったわけだ。

 でも、現実は甘くない。オレは金が尽きても、あきらめずに街を歩き続けたが、いつまでたってもお迎えは来なかった。そのうち、別な意味のお迎えが来そうになった。
 オレは自分のねぐらになっている公園に戻り、緊急の対策を練った。オヤジに見つかる前に、絶対金持ちに拾われたい。そのためには、時間と金が必要だとわかっていた。で、ひらめいたのが、“自分を売る”ってことだった。売春じゃない。自分の体の一部、つまり内臓だ。オヤジが、借金取りの連中に幾度となく怒鳴られていた文句が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 そしてオレは夕暮れ近い街にふたたび繰り出すと、繁華街ではなく山手の方へ向かった。
 着いたのは大学だった。敷地内の大学病院には、何度か来たことがある。オヤジにつきあって当たり屋をした時期があった。一ヶ月入院している間、医者の勉強をしている大学生と打ち解けて、色んな話を聞いていた。そいつを見つけて、オレは自分の内臓を買ってもらえるよう、談判する気だった。

 病院の中に入って、一人で歩いていると、その内周囲の様子がおかしくなってきたことに気がついた。やっぱり、ダメ押しのアピールが裏目に出たか。オレは待合室になぜか置いてあったらくがき帳を一枚破り、そこに“腎臓を売ります”と一筆書いて胸に下げていた。あの大学生以外でも買い手がいれば良し、と思ったからだ。
 立ち止まると、オレはすでに数人の看護婦に包囲されていた。そして一人の若い医者が中腰になって話しかけてくる。
「誰かのお見舞いかい?────どこから、来たのかな?お父さんお母さんは?」
来やがった。オレは黙りこくって、後ずさりした。医者は優しげに笑いながら近付いてくる。「迷子かな?」医者が言いながらオレに触ってこようとした瞬間、きゃー、と叫ぶ看護婦を押しのけてオレはダッシュしていた。待ちなさい、と声がしたが無視して、とにかく病院の外へ逃げた。

 大学生というのは暇らしい。病院内で済みそうな騒ぎは外にまで広まって、オレは脱出しようとした門の前に白衣を来た数人が待っているのを見て、踵を返した。夕暮れが過ぎかけて、明るくはなかったが、それでもすれ違う大人はオレを見て、何かしら呼びかけてきた。やばい。逃げないと、家に戻される!!オレは闇雲に走って、大学のはずれの駐車場までくると、目に付いた車の陰に隠れた。とりあえず、騒ぎが治まるまでここにいよう…そう思った時、足音に気がついた。
「お」
 そいつはオレを見つけて、その場に立ち止まった。白衣は着ていなかったが、ジーパンにスニーカーを履いている。学生だ。オレは当然逃げようとした。が、最悪なことに、次の瞬間向こうから別の慌しい足音が向かってきた。オレは車の下に慌てて頭を隠した。視界に、三人くらいの足が見えた。ひとりは紺色のズボンで、革靴────警察官だ。オレは絶体絶命だった。思わず耳を塞いで目を閉じて、時が経つのを待った。