オレは、あの家に帰らなくて済むなら、もう何だってよかった。その上、学校にも行かないでいいと来る。そうなると後の話に興味はなかった。
「本当に、いいんだな?」
 周は何回も聞いてきた。
「いいってば。何度も同じこと聞くなよ」
 オレがうっとおしそうに返事すると、周はファミリアを発車させた。向かったのは、戸籍上のオレの家だ。住宅街にある、二階建ての安アパート。1Kの広さに、国籍不明の五人の家族が住んでいる。
 周は暗い色のスーツにネクタイをしめていて、胸に小さなバッジを付けていた。まるでヤクザだなと思った。
「じゃあ行ってくる」
 言い残して車を降りると、アパートに歩いていった。
 周の部屋で契約書にサインした後、周はすぐに上の人間と連絡を取った。そして、オレとオヤジ、ついでに嫁その他との縁を永久に断ち切る手筈を整えた。天使の王国に入るため、入信者のこの世のしがらみを抹消する機関が、周の配属部署だというわけだ。オヤジには、オヤジの年収の十倍くらいの借金が毎年雪ダルマ式に増えているところだった。そこをつつく、と周は言っていた。
 オレは車の後部座席に寝転んで、周に買ってもらったミスドで今週号のジャンプを楽しみながら、奴の帰りを待った。

「ただいま」
 周はほんの数十分で戻ってきた。そして運転席に座り、黙って煙草を咥えた。ライターを取り出して火をつけ、窓を少し開けて、咥え煙草でエンジンをかける。
「何も聞かないのか」
「え?」
 走り出して、暫く経ってから周は言った。
「さっきの。オヤジさんと何を話したかとか」
「あー…別に。聞きたくない。なんか言われた?」
 バックミラー越しに周の顔が見える。左目はオレを見ているが、右目は前を向いたままだ。
「いや……」
 車は、周の家に近い、港の脇を走っていた。それがゆるやかに停止すると、周は振り返った。
「ちょっとこっちへ来いよ」
 オレは漫画を置くと、運転席と助手席の間をすり抜けて、助手席に移動した。腰を下ろすと、周がオレの顔をじっと見詰めていた。
「なに」
 オレはその目が少しうざったくて、体を揺すった。そこへ、周の手が伸びてきてオレの頬から顎を触って持ち上げた。やっぱり変な顔だと、オレは思った。半分は女みたいに綺麗なのに、半分は漫画の悪者みたいだ。
「お前、今まで…」
「?」
 オレが怪訝な顔をしていると、周は何か言いかけたまま、何でもない、と手を引っ込めた。そうして再び横を向いた。オレは訳がわからなくて、ただそれを見ていた。今まで、って何のことだ?
「……」
 黙っている周に、オレはふと思い出して聞いてみた。
「なあ、施設に行ってもさあ。あんたとまた会えるかな?」
「………ああ」周は返事すると、またオレに顔を向けた。「会える……」
「いつ?すぐ?」
 周は答えなかった。そのかわりに、周の顔がオレの顔の上に被さっていた。煙草の匂いと苦い味がオレの唇の上をさっとかすめた。オレがびっくりしている間に、周はもう体を離して、車を急発進していた。
 びっくりはしたけど、一瞬だったから、オレは嫌だとも何とも思わなかった。思う暇もなかった。それから後はずっと、周はひとことも喋らなかった。そのまま車は県境の山奥に向かい、目的の施設に着いたのは、もう夜だった。大きな病院のような、白い平屋の建物が、白い壁に囲まれていた。看板のない門の前に守衛が居て、周を確認すると照明をつけた。
 正面の玄関から、白い服を着た若い女と、その母親くらいの年嵩のやはり白い服の女が呼ばれたように出てきて、オレを迎え入れた。
「周!」
 何も言わずに走り去ろうとした周にオレは声をかけた。周は俯きがちにオレを見た。
「またな」オレが手を振ると、周は一瞬だけ笑ってみせ、そのままハンドルを切って走り去っていった。

 それから月日が経って季節が変わった頃、オレはもう周と会えないんだということに気がついた。オレは、この教団に売られていたんだ。周の手引きで。

 最初ここに来て、まず気がついたのが、子供の数だった。オレが案内されたのは子供だけが集められている棟で、そこには施設で修業している大人の信者の倍の数の子供が年齢別に部屋を分けられて暮らしていた。施設内で生まれた子供もいるし、オレのように連れてこられたのもいて、専属の女性信者が面倒を見ていた。
 オレはオレと同年代から中学生くらいの奴らが居る部屋に入れられた。到着したのは夜だったから皆寝ていたが、翌朝紹介された時、見渡した全員の顔が、オレを見てなんともいえないような浮かない顔をしていた。
 ここでは、大人も子供も、真っ白な綿のパジャマのような服を着て、天使の形のペンダントを下げている。
 オレは最初、皆の顔に覇気がないのを、修業のせいだと思っていた。でも、違っていた。天使の王国では自給自足のための農作業と体を整えるヨガで毎日を送るのが基本だったが、それをやるのは大人信者だけで、子供は大人になるまで自由に過ごしてよいことになっていた。といっても当然外出はできないし、服も例の白い服以外身に付けることは禁止だったが。けれども、それ以外なら好きなものは何でも食べられたし、テレビもゲームも漫画も見放題・やり放題・読み放題だった。そして勉強もしなくていいし、早寝早起きもしなくていい!