「おう」
 声が掛けられ、オレは目を開けた。
「もう行ったぜ」
 そいつの靴先がオレの足を軽く小突く。オレは何が起こったかわからず、車の下からそっと頭を出すと、ぼうぜんとそいつの顔を見上げた。
「なんだ、えらいチビだなお前。警察まで呼ばれて、どんな奴だと思ったよ」
 男はカラカラ笑った。オレはその顔、というかそいつの目に見入ってしまっていた。オレをチビだと言っているが、その目玉はオレを見ず、斜め上をぼんやり見上げるような位置で止まっていた。その不思議な様子が、のっぺりとした白い顔のくせに男をどこか怖いような印象にしていた。オレが黙っていると、男は言った。
「試験前で皆気が立ってるからな。悪戯はもうやめた方がいい。あっちの植え込みの向こう───茶道部の茶寮の裏手から外に抜けられるから」
 じゃな、と手を振って男は去ろうとした。
「待って!」
 オレは思わず叫んでいた。そして男の服の袖を掴んで引っ張った。男はびっくりしてオレを見た。
「いたずらなんかじゃないよ。本気だって。これ」
 オレはまだ首にさがっている紙を突き出した。
「あんたが買ってくれない?」安くしとくから、の一言もすかさず付けた。
 男は不思議な目を差し出した紙に向け、何かが詰まったような声を出した。そしてオレに顔を向けた。
「あのな」
 屈みこみ、オレの目の高さに男の顔が下がってくる。
「残念ながら俺は子供の内臓には興味ない。そしてどこで教わったか知らんが、大学病院は内臓の買い取りなんてのはやってない。もしそんなことが世間にばれたら犯罪だからな」
「そんなの関係ねえよ!誰にも言わないからさ、お願いだよ。買ってよ。ねえ」
 袖を引っ張って強情をはるオレに、男はやりきれないような顔をした。と言っても、目はまったく動かないが。
「無理だね。…これでも貧乏学生でね。そんなことより、指摘すると」
 男はオレの紙を取り上げるとオレに見せながら言った。「生きた人間の体から心臓を取り出したりしたら、死ぬんだよ」
「え?!」
 オレの書いた文句は、“しんぞう売ります”になっていた。腎臓、という漢字が書けなかったから平仮名にしたんだった。
「わかったね。じゃあ俺は帰るから。君も早くおうちに帰りなさい」
 男はオレの手を袖から離すと、立ち上がった。
「うちなんて…ないよ」
 オレは下を向いた。そして肩を震わせて、ぐっと堪えた。鼻をすすりながら、ちらっと男の顔を盗み見る。
 夕闇の中で、男の顔が心底げっそりとしてオレを見下ろしているのがわかった。

 男は、周(あまね)と名乗った。
「斜視なんだ」
 周の上を向いたままの黒目は、明るい所で見ると左目だけの異常で、右目はまっすぐにオレを映していた。
「気味悪いだろ」
「変な顔」
 オレが言うと、周は変か、と笑った。よく笑うやつだと思った。
 駐車場で、オレの泣きまねを見破った周はひとこと、面白いな、と言った。
「お前、気に入ったよ。行くところがないなら、ついてこい」
 それでオレは奴の白のファミリアに乗って、奴の家に行くことになった。

 着いた所は、えらく辺鄙なところだった。
 港の近くにあって、辺りは潰れかけた家ばかりで、街灯もない。本当に真っ暗闇だった。
 あまりの人気のなさにオレは一瞬、こいつに殺されるかと思ったほどだ。
 空き地に車を止め、奴と向かった先は、そこから数歩の先にある、木造の廃墟だった。
 広い入り口の前に木で出来た街灯が一本建って、チカチカした灯りを照らしている。赤茶けた看板には、××鉄工所、と書いてあった。
「ここが家かよ?」
 オレが疑っていると、周はシャッターの下りた一階の裏に歩いていき、錆びた階段を上がり始めた。オレも後に続いたが、5段くらい上ったところで、その先の1段が消えていることに気がついた。あまりに錆びすぎて、穴が開いたんだ。見れば周はそれを器用に飛び越えて先を上っていく。
「大丈夫か?」
 振り返って手を伸ばしてきた。しかしオレはそれを取らず、塗装が剥げまくった手摺につかまりながら超えた。そして周の横をすり抜けて階段を先に上りつめる。そこには、事務所、と書かれた古いドアがあった。
「来年この辺り一帯整備されるんだ。それまでの間、家賃タダで借りてる。いいだろ」
 おそろしく狭い部屋だった。さっきの階段と違って壁や床は頑丈に出来ているらしかったが、大きめの窓がなければ、牢屋と勘違いしそうだ。けれども、子供のオレは妙にワクワクと興奮していた。外見はボロだが、ちゃんと電気も水も通っているし、水洗トイレもある。ビールケースを並べて作ったベッドといい、最低限の生活が出来るように一応整っているところが、何だか秘密基地っぽかった。真っ先にベッドに転がったオレの横で上着を脱ぎながら、周は小さな流し台と卓上コンロが置いてある台所もどきに目をやった。
「腹が減ったよな…といっても、こんなものしかないか。───食うか?」
 周が流しの下を開けて取り出したのは、スーパーで特売三個298円で売っている、カップそばだった。オヤジが女と逃げている間も、女に逃げられて家にいた間も、食わされていたやつだ。いつもなら見るのも嫌だったが、この時は空腹が勝った。周はヤカンに水を張って火に掛け、二個のカップそばの下準備を始めた。オレはその一連の作業を黙って見守った。やがて沸いた熱湯を注いで、蓋の上にその辺の文庫本を重石として乗せた。その時気がついたが、部屋は本まみれと言っていいほど、雑誌やら図鑑が積み上げられていた。オレにわかる範囲だと、仏教だとか魂とか精神とか、あとは何やら難しそうな物ばっかりだった。
「あんた本当に大学生?」
 オレは出来上がった蕎麦を受け取りながら聞いた。
「どうして?」
 周は一つだけある木製の椅子に腰を下ろして箸を割った。
「何の勉強してんのかなって」
「あぁ…」箸をカップに突っ込んで、周は右目を細めた。
「今はシンガク」
「シンガク?」
「人はどこから来てどこへ行くのか考える勉強。なんつって」
 思い出したように立ち上がり、台所の傍の棚から七味を取った。
「どこに行くの」オレはその背中に訊ねた。「ねえ、どこ?あんたはそれ、知ってるの」何も考えてなかった。ただ聞きたくて聞いただけだったが、周の動きが止まった。そして振り返ったかと思うと、ニヤーッと笑った。オレが意味をわからないでいると、こんな感じ、と周は言った。
「ブッダの有名な逸話でね。ブッダの気持ちを唯一人理解した弟子は、皆の前でただ笑って見せたそうだ。真の理解は言葉では言い表せないってこと」