その翌日、ヌールの城壁から10リーグほど離れた丘陵に、ドリゴンの軍勢が姿を現した。青紫に染め上げ、銀の剣と羊歯があしらわれた紋章の旗が、向かい風に翻った。その数は、五百にも満たなかったが、ヌールの王都は、初めての襲撃の恐怖に震撼した。
 黒い鉄の甲冑に身を包み、馬に跨ったデラヒアス王が剣をかざし、獅子のような雄叫びをあげると、ドリゴン軍はヌールめがけて突進してきた。
『ひるむな!放て!!!』
 騎士団長のマキシアヌが檄を飛ばし、城壁の近衛兵が数百の矢を一斉に放った。

 戦いは薄暮に始まり、夜に及んだ。
 闇が視界を完全に包んでしまうと、ドリゴン軍はようやく退却していった。
 一度の襲撃で、ヌールの城壁は半壊し、都の大部分が焼けた。
 煙と血の臭いが充満し、人々の悲鳴が飛び交う中、マキュージオは消火と怪我人の救助に奔走していた。髪の焼け焦げた騎士が、馬でマキュージオの下へ駆けつける。
『ディアベリ』
 その血の色を失った顔を見て、マキュージオは胸騒ぎがした。
『副団長。────ユーリが』

 マキュージオはディアベリの馬を駆り、負傷者を収容している教会を目指した。しかし、駆けつけた時には、ユーリはすでに息をひきとった後だった。全身に火傷を負い、ところどころ黒く焼けこげている亡骸だったが、美しい金髪がひとふさだけ、燃えずに形をとどめている。それを見詰め、茫然と佇むマキュージオに、後を追ってきたディアベリが並んだ。
『シルヴィオ卿の屋敷付近で、発見しました。…これが、ふところに』
 ディアベリの手の中には、硝子の小瓶が握られていた。
 わずかだが、底に透明な液体が入っている。
 ぼんやりと、マキュージオはそれを見詰めていた。何も、考えることができない。
 ディアベリは見かねたように、マキュージオの手をとり、瓶を握らせた。
 ディアベリがさがると、マキュージオはユーリの遺体の前に膝をついた。
 涙は出なかった。否、出すことを己で止めていた。ユーリは、自分のために死んだのだ。
 自分の涙など、決して弔いにならぬ。
『………』
 マキュージオは無言で、その焼けこげ、目鼻の潰れたユーリの額に、口吻した。

 三日後、ヌール軍の要請で、西のシャンドラン軍が到着しドリゴン軍を一気に劣勢に追いやり、戦線をヌールの王都から80リーグ離れた平原に退けた。
しかし、ドリゴン軍も同じくして、南のオエセルに援軍を乞い、戦局は四王家全体に拡大することになった。
 それから戦は長期に入ったが、やはり仇討ちという背景があるせいか、ドリゴン・オエセルの連合軍が優勢をとっていく。
 最初は二千程いたヌール・シャンドラン軍は、いまではその数を半分に減らしていた。ダミアロスはこの状態に憤り、弟であるシャンドランの領主レミオスに、西に残っている残り三百名のヨギルカス辺境警備隊を呼び出すよう命じた。
が、レミオスはそれを頑として拒否し、味方同士でありながら、しだいに対立するようになってしまった。
 不和を抱えながらの戦いは、北西軍をますます窮地へ追いつめる。
 そして、そんなダミアロスとレミオスの不和を取り持って果敢に軍を率いていたヌールのマキシアヌが戦死した時、この戦いの終止符は打たれたようなものだった。
 しかし、ここで転機が訪れる。
 ドリゴンの港で、おそろしい不治の伝染病が発生したのだった。
 灰化病というその病は、罹れば一日からひと月の間で確実に死に至る。高熱がすさまじい速度で内臓を焼き、皮膚を爛れさせるので、治療も追いつかなかった。
 ドリゴン領内は混乱し、やがて、領主のデラヒアスが感染してしまった。
 デラヒアスが戦線を退くと、オエセルのヴァルミランが東南軍の指揮をとったが、勝機を得た北西軍の前にヴァルミランはあっけなく命を落とした。
 その時点で、戦役が始まってすでに半年が過ぎ、季節は秋になろうとしていた。
 冬になれば、敵軍以外の脅威に、兵力が衰える。寒さと、食料不足がそれであった。
 そのため、たとえ優勢であろうと、北西軍にも焦りが見えるようになっていた。

 マキュージオはその頃、ヌールの領地のとある村で、キリルという遍歴の医者と密会を果たしていた。
 自称・錬金術師を名乗るキリルはずんぐりとした醜い小男で、下卑た笑いを口元に浮かべながら、マキュージオの前に硝子の小瓶を差し出す。
 ユーリが、その死と引き替えに持ち帰った、あの小瓶であった。
 燭台の明かりに照らされたマキュージオの顔はフードに隠されている。
 うらぶれた酒場の二階の部屋だが、かといって警戒がいらぬわけではなかった。
『待たせてすまんな。解析に案外手こずった』
『それで』
 マキュージオは椅子に腰掛けていたが、テーブルの上のゴブレットには手をつけていなかった。急かすマキュージオに対し、キリルは自分の杯の葡萄酒を恨めしげに眺め、
『こりゃあ、毒だ』
 ぴくり、とマキュージオが身動きした。キリルは杯をとり、中身を少し飲み、
『……名前はいろいろあるが、一番馴染みがあるのは、エリクシール。外つ国の言葉では万能薬だが、まあ符丁というやつだ………人知れず、殺したい相手がいる。しかし立場上、周りに知られては困る。急に死なれても、己が疑われる。そういう時に使う、暗殺薬だ』

業星の騎士