リラダンは、民兵軍“緑の連合軍”を組織し、これを迎え撃った。その数は五百名と、ヌール軍を上回ってはいたが、しょせんは戦歴のない一般人であり、戦場では多くの民兵が逃走していった。
ダミアロスは、勝利を確信した。
が、そこでリラダンは秘密兵器を投じた。人を悪魔に変える妙薬─────聖エーテルである。
そして聖エーテルが投入された途端に、戦局はリラダン側が圧倒的に優勢となった。
ヌール軍はたちまちに全滅の危機に瀕し、その中で、ダミアロスがとうとう倒れた。
ヌール軍を救うため、シャンドランの兵がアーシュラスの指揮のもと、ようやく向かったが、戦局は変わることはなかった。
緑の連合軍の強さは、それほどの脅威だったのである。その上、五百名だったその数はたちまち二千に増加していた。
王制に対する反発は、灰化病の伝染を遙かに凌ぐ勢いで国中に広まり、緑の連合軍にはかつての王国の騎士や、それらが身を崩した放浪人、物拾い人、盗賊や人殺しといった罪人までが紛れ込んでいた。
何百年もの間続いた、アルヴァロン王家滅亡の危機。
その回避のため、戦場にはかつて敵同士であったオエセル軍と、かつてのドリゴン軍が合流した。
そうして、西のアーシュラス、北のディアベリ、東のジラザーンによる合同の指揮のもと、四王家とリラダンとの凄絶な戦いがはじまった。───────後の、聖エーテル大戦、聖エーテルの虐殺であった。
時期を同じくしてヌールでは、セロドア王子の戴冠式が開かれた。
ダミアロスはまだ死んではいなかったが、その体は床から起きあがれぬほど弱っていた。もう二度と、王座に戻ることができないのは、明らかだった。
息子のセロドアに、王位を譲る───────ダミアロスの言葉を受け、フェルマールが式を一任された。会場となったのは、王の間であった。セロドアは、フェルマールひとりを除いては、見慣れぬ顔ばかりに囲まれ、祝辞を述べられた後、フェルマールの前で王の誓いを行った。
ヌールの王都は、ドリゴン軍の攻撃から完全に回復しておらず、民は日毎に減少していた。
大人の男たちは皆戦争に駆り出され、通りには活気が失われていた。
埃の混じった風が破壊された建物の間をすり抜けていき、増え続ける無人の荘園は、荒れ野と化していった。
遠くから聞こえてくるのは、戦死の知らせと、悪鬼と呼ばれる緑の連合軍の恐怖であった。
希望は失われ、ただ死を待つのみに任せたヌールの民衆は、新しい王の誕生にも、さして関心を示さなかった。まるで幽霊のように、物陰にへばりついて宮殿を見上げるだけだった。
セロドアは、廃墟の地の王となってしまった。
マキュージオの身柄は獄中にあった。
ヌールの牢獄は、宮殿の敷地内にあり、石造りの古い建築だった。罪人たちは百名ほど収容されていたが、先の出兵に際して兵力を補うため、体の動けぬ者を除いた全員が駆り出されて、今ではほとんど無人の状態だった。
にもかかわらず、マキュージオは独房の、孤立した塔の中に閉じこめられていた。
手足は壁に四肢をはりつけるように、鎖で繋がれている。警備は厳重にされ、フェルマールと、食事を運ぶキリル以外は立ち入りを禁じられていた。マキュージオはフェルマールに拷問され、肉体は傷つき、弱り切っていた。
さらにエリクシールの禁断症状がしばしば幻覚や分裂を引き起こし、精神を蝕んでいた。
記憶は日に日に朧気になり、残された理性は、細かい砂粒のようになって今にも崩れ去ってしまいそうだった。
あれから、外の世界は一度も見ていない。が、食事を運んでくるキリルの口から、戦役のあっけない終結と、リラダンの反乱、そしてセロドア王子の戴冠のことは知った。
騎士団長の位を剥奪されたマキュージオを、キリルは大げさに笑い飛ばした。
しかし、マキュージオに頭突きを喰らい、その前歯を失ってからは、余計なことを話さなくなった。
その日。マキュージオは石室の天上に取り付けられた小さな窓を見上げていた。
じき、昼だ。
ぼんやりと考えるついでに、額を流れる異常な汗に気が付いた。薬が切れる時が迫っているのだ。汗はたちまち全身を流れ、足が震えだした。歯が噛み合わなくなるのを、必死に噛み締める。
心臓の動悸は速くなるが、頭の中は緩慢になっていく。狂気の時間がやってくるのだ。
理性の縁にしがみつきながら、マキュージオは固く閉ざされた鉄の扉を見た。
じきに、キリルが薬を持ってくるはずだ。
すると扉がおもむろに開いた。
現れたのは、キリルではなかった。
セロドア王子────否、セロドア王であった。その後ろにキリルとフェルマールが控え、不敵な笑いを浮かべている。
『マキュージオ!!』
セロドアは声を上げ、マキュージオの前に駆け寄った。
金色の巻き毛。賢さと優しさに溢れた眼差し。少し痩せていたが、それはセロドアに間違いなかった。深色の衣装の袖から伸びた細く長い指が、マキュージオの頬に触れようとする。
しかしその手首を、横からキリルが掴んだ。