最後の王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 セヴェリエの意識は崖のマキュージオから離れていった。
 どうやらアルスが再び、セヴェリエを別の誰かの記憶の中へ、送り込んだようだった。感覚が消え、そして取り戻し、セヴェリエは次第にその記憶が誰のものであるかを認識した。
──────アルヴァロンの最後の王位継承者・セロドアであった。

 ヌールの元・王国騎士団隊長と、フェルマールの従者キリルの失踪は、困窮を極めるアルヴァロン連合軍の戦況の陰で、誰も注意を払っていないように見えた。

 セロドアが戦線に赴いてから、七日が過ぎた。
 緑の連合軍との戦場となっている東の荒野には、真冬の凍てついた風が吹き荒れていた。陣営に待機するアルヴァロン連合軍はすでにその数を最初の半数に減らしていた。負傷して動けなくなる者、死亡する者は相次ぎ、あるいは投降し捕虜となり、敵の軍門に下るといった者も少なくなかった。わずかに残った兵も、寒さと飢えで、戦力を失いつつあった。
 セロドアは、各軍の大将たちと頭を突き合わせるように毎日作戦を練ったが、依然として解決の方向は見出せなかった。現在、アルヴァロン王家の連合軍(国王軍)の総数は千に満たず、対して緑の連合軍はその倍以上であった。
──────絶望的な戦力差は、各軍を指揮する大将たちを混乱させ、次第にアルヴァロン国王となったセロドアに対する不信となった。
 個人の戦闘能力は意外に高いものの、犠牲を極端に嫌うセロドアの戦い方は、彼らには、怯儒にしか映らなかったのである。ある時会議の席で、セロドアがふと、“リラダンと会談し、休戦協定を提案してはどうか”ともらした事があった。会議場となっている王の天幕には、ジラザーン伯爵、アーシュラス王子、ディアベリ騎士団隊長、そしてオエセル軍の隊長が列席していた。
『陛下』
 一瞬閉口した後、西のアーシュラスが咎めるような目を向けた。父のレミオスに似ず、長身で、柔和な顔立ちをしている。年齢はマキュージオと近く、かつて西の兵術と馬術を学ぶため、マキュージオがシャンドランに出向いた時、二人は友の誓いを交わしてもいた。セロドアは続けた。
『兵力は半減した………包囲されておらぬ今の内に……撤退し…軍の再編を……』
 皆一様に、苦渋の表情を浮かべていた。そこへ、雷鳴のような怒号が飛ぶ。
『──────この後に及んで!!』
 ジラザーン伯爵であった。赤みがかった金髪と浅黒い肌。近寄りがたいほどのものものしさで、国王軍の半分を占めるドリゴン軍を率いており、実戦において総指揮の主導権を握ることが多かった。
 作戦会議も、結論はジラザーンに委ねる側面があった。
 この戦いの後、残されているロトとの戦争のため、自軍の消耗を渋るアーシュラス。ジラザーンに領地を攻撃された恨みを抱えながら、王家の結束のために出陣せざるをえなかったオエセル軍、そして戦いに不慣れなセロドア。三人とも、各自の考えを自由にする余裕がなかったのである。
ジラザーンに殺気を込めた目で睨まれたが、セロドアは怯まず、真っ直ぐに見返した。
『────これ以上の…争いは無意味。……気候も厳しくなろう。このままでは、皆…全滅してしまう』
 吃音ながら、強い口調であった。
 『ならば』
 ジラザーンは立ち上がった。そしてセロドアの前に進み出てきて、
『その無駄な時間を省く戦略を考えなされ。王よ』
 鬼のような顔面を近づけ、押し殺した声で凄んだ。そして背後を振り返り、同席の大将達に声を響かせた。
『我が軍は、死を怖れぬ!───我らの土地、ドリゴンを再び我らの手に取り戻すまでは、最後の一騎まで、戦う!!』
 言い捨てると、大股で天幕を出て行ってしまった。
 それが合図であるかのように、他の人々も席を立ち上がる。
『…休戦すれば、今と同じ戦力は、二度と集まりますまい』
 ぼそりと、去り際にアーシュラスが呟いた。
 天幕にはセロドアと、ヌールの騎士団長・ディアベリだけが残った。
 じっと座ったまま動かず、視点を凍りつかせているセロドアを見かねて、ディアベリは言った。
『王のお気持ちは、皆存じております』
 その声に気がついて、セロドアはふと緊張を崩した。
 しかし、喉にこみ上げてくるやり場のない感情は、そこに留まったままだった。
『…すまぬ、ディアベリ。退がって……くれ』
 低い声で告げると、ディアベリは静かに礼をして、天幕を出て行った。
『………』
 ディアベリの気配が消えたのを察すると、セロドアは深い溜息を吐き出した。緊張していた糸が切れ、体がずっしりと重く感じられる。背中を冷たい汗が流れた。目を閉じると、軽い眩暈が起きる。
 指先が震えてきて、自然と拳を握り締めた。
『このような時こそ、皆の心を一つに纏め上げなければ。…王としての資格を問われましょうぞ』
 突然声がして、驚いて顔を上げた。
 天幕の入り口に、いつの間にかフェルマールが立っていた。
 足元まで伸びた白髭、濃い緑のローブを纏い、水晶の杖をついている。
 まったく気配を感じさせずに姿を現す所業は、しばしば彼を賢者ではなく、人外の物の怪のような印象を抱かせた。