今日ここにフェルマールが来るなど、セロドアは聞かされていない。
 いくら賢者であろうとも、敵軍がどこで張っているかわからぬ荒野へたった一人で来るなど、考えられなかった。
 第一、フェルマールは執政としてヌールに留まっていなくてはならないのだ。
『どうしてお前がここに…』
 セロドアの問いには答えず、フェルマールは杖をつきながら前に進み寄ってきた。
『陛下が初陣で苦しんでおられますのでな。私めの知恵をお貸ししようと馳せ参じたのですよ…ジラザーン伯のお怒りはごもっとも。陛下は少々、臆病風に吹かれておいでのようでございます』
『……』
 セロドアは、フェルマールを睨んだ。
『緑の連合軍二千に対して、我がアルヴァロンは一千足らず。それも日を追うごとに減少する傾向にあります。────王都では、陛下に対する不満の声が上がっておりますぞ。しっかりなされませ』
 セロドアはそれに反論することができない。先ほど圧し掛かってきた重圧感が、フェルマールのせいでさらに重く感じられた。喉が締め付けられ、息ができなくなりそうだった。ここでは、セロドアを気遣う人間は一人も居なかった。ディアベリにしろ、ジラザーンにしろ、自分に求めているのは、帝王として頼れる人格だった。それは、臣下ひとりひとりに心を砕くようなものではない。常に国を見渡す視点で思考し実行しなければならなかった。主観は、捨てねばならぬ。
────それが理解できるからこそ、セロドアは自分の甘さが腹立たしかった。
『どうしたらよい……教えてくれ、フェルマール…』
『援軍を請いなされ』
『援軍?一体どこに…』
 セロドアは訝しげに眉をしかめた。
『ダーイェン』
 フェルマールの答えは、突拍子もないものだった。大国ダーイェンとは隣国同士ながら、過去に一度として争いはなかった。が、特に際立った交流もなかった。ダミアロスでさえ、ダーイェン国家と繋がりを持つことはなかったのである。
 彼の国は、多様な人種が各々の文化を守り、それぞれの領地を自治しているという。
 もし援軍を求められれば、戦況は好転するのかもしれない。が、その申し出の手段が、咄嗟に浮かばなかった。
 複雑な表情をするセロドアを推し量ってか、フェルマールは口元に笑みを浮かべた。
『実を言いますと、私めにはかの国から少なからず恩義を受けております。…私が仕えるアルヴァロン王国の危機となれば、すすんで助力を申し出てくるはず』
『お前が…交渉役を?』
『お任せください』
 しかしセロドアの表情は決して晴れなかった。フェルマールの言葉に嘘偽りは感じ取れなかったが、セロドアの心根は、警戒を解くことはなかった。
 援軍のつてがあるなら、もっと早い時期に言うべきではないだろうか?
 すでに味方同士の心は一つではない。その上、これによって誘発するさらなる混乱の可能性も無視できない。
 事態は切迫している。
 先程のジラザーンの反応を例に出すまでもなく、もはや退却は考えられなかった。セロドアの意志とは無関係に、事態は不測の速さで進んでいる最中であった。しかし、だからといってダーイェンに援軍を請うて叶うかどうかは、また別の問題に思えた。フェルマールにいくらの恩義があろうと──────援軍と引き換えに、ダーイェンはアルヴァロンに要求してくるに違いなかった。
 東の金の鉱脈か、それともドリゴンの港か─────いずれにしても、アルヴァロンの国土がその対象になるだろう。
(本末転倒ではないか。)
 セロドアは苛立ちを感じた。フェルマールを見ると、笑っている。セロドアは思わず口に出した。
『───……マキュージオは、どうなった』
 セロドアの問いに、フェルマールの笑顔が静止した。
『マキュージオ』
 白髭に覆われた唇が、微かに蠢く。
『…ああ、あの謀反人』
 その言葉に、セロドアのこめかみがピクリと動く。
『───解放…したのだろうな?まさか…』
 フェルマールは再び笑みを浮かべたが、それは先ほどとは違うものだった。
『ええ…勿論ですとも。陛下が城を出られたその日に、牢から出しました。ただ…未だ体力が回復しておりませんので、陛下にお目見えすることはまだまだ先でしょう』
『では…ヌールにいるのだな。…一刻も早く体を戻し、こちらへ向かわせるよう…城の者に伝えよ……ダーイェンに向かうのは…その後だ。…よいな』
 フェルマールは目元に深々と皺をつくり、口元を歪めた。その緑色の眼が、不躾な視線をセロドアに向けてくる。
 セロドアはキッと睨み返した。
『……ふふふ。陛下は余程、あの男に執着があるようですな。業星の伝説など、まったく信じておられぬ…』
フェルマールは呟きながら、セロドアの腰掛けている椅子の傍らに寄ってきた。
 無言できびしい目を向けるセロドアに構わず、寄り添うように傍に立つと、杖をついたまま、セロドアの顔を覗き
込んで、わざとらしく声をひそめた。
『──────どうですかな、あれから……お体の具合は』
『…なんの…ことだ』
 とは言いながら、セロドアは狼狽した。フェルマールを睨む目がさっと伏せられる。
 フェルマールは遠慮なく、あからさまな視線を向けたまま、長く爪を伸ばした皺だらけの手でセロドアの肩に触れた。 
 ぴく、と身じろいだ反応は、セロドアの中に起こった動揺を隠せなかった。
最後の王