セロドアは、数週間ぶりにヌールに戻った。
 ほんの短い間に、都はいっそう寂れ、人が減っていた。
 ヌールの宮殿内もそれは同じで、不気味なほどに静まり返った回廊では、北の山から吹いてくる風が息を白くさせた。
 セロドアは、生まれてから数回しか訪れたことのない、父ダミアロスの寝所を訪れた。今わの際に寝台を囲んでいるのは、フェルマールと、数人の家来だけだった。寝台に近づいていくと、その中で骸骨のように痩せて小さくなったダミアロスが、窪んだ目を宙に向け、途切れ途切れに息を繰り返していた。
『父上…』 
 その顔を覗き込み、セロドアは名を呼んだが、ダミアロスの反応はなかった。
『セロドアです。父上……』
 変わり果てたその姿を見て、セロドアは胸が締め付けられた。夜着の下から骨ばった父の手を取り、そっと握る。そこで初めて、ダミアロスが視線を動かした。
 セロドアを見つけると、うめきのようなしわがれ声で、
『お前か……ああ、戦は…どうなった……』
『─────────…まだ、決着…は』
『お前には…荷が重過ぎた……』
『父上』
 ダミアロスの言葉に、セロドアは初めて親の労わりを感じた。が、
『我が息子、インガルドならば…成し遂げられたであろうに………』
 その後に続けられた言葉は、セロドアを打ちのめした。
『父上。…兄上のかわりは、きっと……この私が…務めて見せます──────きっと』
 セロドアは、父の手を握る力を込め、言った。しかしダミアロスは、その言葉には応じず、ふたたび視線を宙に戻すと、長い息を吐いた。
『─────────アルヴァロンは滅びた』
 それが、ダミアロスの最後の言葉だった。セロドアはこときれたダミアロスの手を握り締め、顔を俯けた。
(父上…)
 悲しみも深かったが、セロドアは、それ以上の寂しさで、涙を堪えていた。セロドアは、とうとう一人になったのだ。
『………』
 屈み込んで動かないセロドアの背後に、数人の足音が寄ってきた。家来たちは残らず退がったはずだった。
 振り返る。
『お前たちは…』
 兵士であったが、アルヴァロンのものではない、三日月の紋章をつけた男たちが立っていた。
『私の、部下たちです』
フェルマールが告げる。
『アルヴァロンの者ではないな』
 立ち上がり、身構えながらセロドアは言い放った。
『左様。彼らはダーイェンから参った者たちです』
『!…では、援軍か』
 セロドアのきびしい目つきが一瞬緩む。が、兵士たちは各々の腰の剣を抜き、セロドアを囲みだした。
『そうではありません。────────この者たちは、これからあなたを牢獄へ案内するだけです』
『何?…どういうことだ…』
 包囲する兵達から目を離さずに、セロドアは剣を抜く機会を窺った。
『あなたは罪人となるのですよ。…国を戦乱に陥れ、民から家族と財産を奪った元凶として……あなたは処刑され、アルヴァロンは新たな国となって生まれ変わるのです』
『謀反か、フェルマール……。しかし私を殺したとて…アーシュラスやジラザーンがいる』
『ふふ…現状を御覧なさい…シャンドランはロトに攻め入られ、もはや風前の灯火。ジラザーンとて、リラダンに敵うことはないでしょう』
『すべて…お前の思惑通りと…いうわけか…。それで、最後はリラダンと手を結ぶか』
『それもまた一興でしょうな。─────────しかし私にとっては、あの男の存在などどうでもよいこと……さて、陛下。おとなしく従って頂きましょう』
 フェルマールが目配せすると、兵たちがセロドアに飛び掛った。セロドアは剣を抜き、剣を交えた。屈強な男たちであったが、セロドアも戦線から戻ったばかりで動きを読むのは素早かった。
 たちまち一人斬り倒し、入り口に向かって突破しようとした。その時。
『─────────待ちなされ。陛下』
 振り返らずに走るつもりだった。が、──────目の端で見てしまった。
(父上!!)
 一人の兵士が握った切先が、ダミアロスの亡骸を狙っていた。
『やめろ!父上に触れるな─────────』
 血相を変えてそちらに向かったセロドアの後頭部に、鈍い打撃が振り下ろされた。
『─────────う』
 ばたりとうつ伏せに転び、その上から兵士が数人押さえつけた。
『…急いで運べ』
 フェルマールが命じ、セロドアは身を引きずられて部屋から出された。

 セロドアは、ヌールの牢獄ではなく、城の地下奥に身柄を拘束された。寒さをしのぐ物は何ひとつなく、天井の空気孔から漏れる細い日差しだけが部屋を照らしていた。セロドアはそこで食事も水も与えられず、石の壁に滲み出る露を口に含み、三日ほどを過ごした。四日目、閉じ込められている部屋の扉が開き、漆黒のローブ姿の不気味な人々がセロドアを連れ出した。フードで顔を隠した人々は、皆無言で、セロドアに手錠をかけ、地下を出ると宮殿の礼拝堂へ入った。
(ここが私の死に場所か…)
 セロドアは、衰弱した意識の底でぼんやりと、巨大なロザリオを見上げた。その下に、大理石でできた寝台がある。セロドアは無抵抗のまま、ローブの人々に手をひかれ、寝台に横たわった。天井の荘厳な宗教画が目に入る。しかし、その芸術は、セロドアの心に何の感動も与えなかった。ローブの人々はセロドアを取り囲んでいる。その内の一人の手から、ガラスの小瓶があらわれ、セロドアの口元にあてがわれた。
(それは……)
 わずかに身じろいだセロドアの肩が押さえられ、小瓶の中の液体が唇から喉に流し込まれた。途端に、全身が震えだし、感覚を失う。聴覚が消え、味覚も、触覚も、嗅覚も消えていった。目だけが、現実を映し出した。
 その目の前を、剃刀が横切る。
 セロドアは戦慄した。彼らが、これから何をしようとしているかが、わかりかけていた。
 続いて、感覚のないセロドアの顎が掴まれ、口を開かされた。痛みは皆無だったが、頬が上下に引き攣るのは感じる。
 喉の奥に、剃刀の刃がそえられるのを見届けると、セロドアは目を閉じた。
最後の王