賢者の死
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ハザは疾風のように闇の中を駆けた。
 その背後に必死の思いで追いついて、シンディエは息を切らせて叫ぶ。
『ハザ達が王の墓へ向かった後、ラウール達が苔穴にやって来たんだ。それで俺達は事情を話して───王の墓にラウール達を案内したんだ。そしたらその途中で、カイエス達が海市館の異変に気付いて』
『レムディンか。あいつが、居たのか』
 エルフ達の頭領。残酷な、氷の眼をした。シンディエは頷いた。
『カイエスとジヴラールが館の外から見張ってる。だけど──』
『ラウール達の仲間は誰も館へ行っていないのか?』
 少年二人だけを残して何という───ハザはラウールを軽蔑しかけた。が、考えてみれば、彼らにとってはエンデニールは無関係に等しい存在だった。ラウール達にとっては、ボルカシアの命の方が何よりも最優先なのだ。
『………』
 沸き起こる思いを断ち切るように、ハザは速度をはやめた。
『ハザ!待ってくれよ──』
 シンディエはそれに追いつくことができず、取り残されていく。枝垂れた蔓の棘が顔を傷つけ、腐りかけた倒木が足を捕らえたが、構わずにハザは濃い闇に包まれた森の中を駆けた。血走った眼は何も映さず、耳には誰の声も届かなかった。闘いの疲れは、どこかへ忘れてきてしまった。
 疲れ。迷い。ハザ自身をわずかでも躊躇させるものをハザは自ら拒絶し、走ることに集中していた。
『ハザ!!そっちじゃない』
『!?』
 ふいに頭上で声がして、走りながらハザは振り返った。すると背後から馬が駆けてきた。手綱を握っているのはシンディエだった。シンディエの持ったカンテラの光を見て、ハザは我に返った。
 馬の影が真横にさすと、ハザはその手綱を掴んで握り締め、地を蹴った。首を引かれた馬が金切り声を上げる。ハザはシンディエの背後に跨り、動揺する馬を制した。馬は前脚を上げ、その場に足踏みし、足掻いた。
『どこから連れて来た?』
 馬を落ち着かせながら、ハザは訊ねた。
『ゾルグ達の馬だよ!海市館に繋がれていた!』
 暴れる馬の背から落ちないよう、しがみつきながらシンディエが答える。
『くそ。この───』
 舌打ちし、ハザは馬の腹を蹴った。すると馬は恐ろしい速さで駆け出した。狭い木々の間を突きぬけ、長い松の枝が鞭のように馬上の二人の体を打つ。沼を飛び越え、岩場を踏みしめ、草原と林を巡った。
『方向は?どっちだ』
 いつのまにか頭を抱え、自分の腕に縋りついていたシンディエを引き剥がし、ハザは怒鳴った。
『カンテラを離すな』
 怯えるシンディエに凄むと、ハザは上空に目をやった。わずかだが、星が見える。その中で、ハザは乏しく光る南天の星座を見つけた。馬の鼻先はその真下を目指している。
『駄馬だと思ったが、存外優秀らしい』
────それは、海市館の方向に間違いなかった。『急ぐぞ。しっかりつかまっていろ』ハザはシンディエに告げると、馬を急き立てた。エンデニールに、これ以上の苦しみを与えるわけにはいかない。仲間に裏切られ、人間にも裏切られたままで、死なせる訳には────
(何故?)
 そこまで思い至って、ハザは自分に疑念を持った。そもそも、エンデニールに苦しみを与えたのは、自分達ではないのか?脅迫されたとはいえ、行為の実行者は間違いなく、自分だった。そして行為の最中、情けも分別も、持つことはなかった。それなのに。
 胸の内に、冷たい闇がまざまざと広がってくる。鼓膜に蘇ってくるのは、斬り去ってしまいたいものばかりだった。

 ほの暗い灯りの下で、ハザはエンデニールを抱いている。否、犯している───
 寝台の上で膝を折り、うつ伏せにしたエンデニールの痩せた背中が穿たれる度に引き攣り、背骨を浮かす。
 エンデニールは全裸にされていたが、ハザは魔封じの帷子を身につけたままだった。動くたびに、ミスリル製の鱗が擦れ合い音を立てた。
 長い髪が縺れて散り散りに光っている。荒い息を吐きかけながら、ハザはエンデニールの腰を抱え、単調な行為に快楽だけを求めた。夜の冷気は肌に浮いた汗を一瞬で吸い取っていく。だがハザの雄と、それを受け入れるエンデニールのそこだけは、いつまでも熱を持ち続けていた。
『……っ……』
 喉の奥で唸り声のように呻き、ハザは腰に広がる気だるさを覚える。軽い眩暈を振り切って視線を先にやると、エンデニールが顔を伏せていた。長い金髪がその表情の全てを覆い隠している。ハザは苛立ちを覚え、エンデニールの肩を掴んだ。
『おい』
 声をかけ、肩をひいて上を向かせる。次の瞬間、驚いたのはハザの方だった。
『…………』
 最初、気を失っているのかと思った。しかし灯りの下でよく見ると、エンデニールの瞼は開いていて、瞬きもしていた。
 しかし、意識があるとは言い難かった。エンデニールの薄い緑色の双眸は、真正面を向いても、ハザを見ていなかった。
 あるのはただの、空虚だった。