(精霊語──いや、違う?)
 ごお、と空気が鳴った。目に見えぬ圧力が、足元から沸き起こる。
 男が、こちらへ向かってくる。その右手がわずかに持ち上がるのを見て、レムディンは反射的に剣を振り上げた。
 閃光が迸った。
 頭上で、何かが破裂した。
 レイピアが落下して、気がついた。右腕が────
『うがああああああああああああ』
 レムディンは絶叫した。激痛が全身を貫いた。混乱しながら、左手で右肩を庇う。流血は夥しく、レムディンの全身が朱に染まった。痛みと衝撃で、床に膝をつく。オークの肉体がみるみる萎み、エルフの姿を取り戻していった。
『ぐ…っ』
 痛苦に喘ぐ余り、レムディンは戦意をすっかり失っていた。しかしそれでもなお、男は近付いてきた。
『……貴様、一体』
 絶望の眼で、レムディンは男を仰いだ。男の手が再び動きを見せた。すると周囲が青白く光った。
 覚悟を決めたレムディンの耳に、精霊語の詠唱が聞こえたのはその時だった。目を開けると、自分の周囲を円形の光が包んでいた。レムディンは振り返った。
『エンデニール』
 書斎の入り口に、エンデニールが立っていた。その脇を、少年二人が抱えていた。
(さがれ、レムディン)
 エンデニールは目で促した。見ればレムディンを包囲する魔法の障壁は、その規模を収縮しはじめていた。男の魔力が、強力過ぎるのか───レムディンは痛みを堪え、レイピアを手繰り寄せると、エンデニール達の方へと駆けた。エンデニールの背後にまわると、レムディンは口早に治癒の呪文を唱えた。自己催眠の発展したもので、自分に暗示をかけることで一時的に出血と痛みを制御するそれは、魔力を持たぬ者でも訓練で身につけることが可能なのだった。
 エンデニールは前に進み出ながら、詠唱の声を強めた。
 レムディンは、驚愕した。エンデニールの顔色は青褪め、酷くやつれ、少年達に支えられて立つのがやっとだった。両足が、震えている。引き裂かれたローブで肌は隠されていたが、その下は、まだ癒えない生々しい傷が血を流しているはずだ。
 対峙するローブの男は、虚ろな顔のままで、幽霊のように佇んでいるだけだった。しかし、彼を取り巻く邪悪は、膨れ上がる一方だった。エンデニールの魔法は、自分達を防御することで限界だった。
『………』
 レムディンは渾身の力を込め、立ち上がった。流血が大量に床に滴り落ちたが、気に止めず、左手のレイピアを握りしめ、エンデニールの傍らに立った。そして、エンデニールを支えている少年に向かって言った。
『お前達、ハザの仲間だな』
 少年達は驚いてレムディンを見上げた。レムディンは続けた。失血して、声は掠れていたが、強い口調だった。
『私が奴を倒す。エンデニールを、頼む。聞くのだ』
 横を向いたまま、詠唱に集中しているエンデニールを一瞥し、続けた。
『…合図をしたら、部屋の外へ飛び出せ。エンデニールの防壁が崩れれば、今膨張している奴の力が爆発する。一度解放した巨大な力は、どんな術者だろうと制御ができぬはず……奴の隙はその一瞬だ。後は私に任せろ』
 少年達が頷くのを見て、レムディンは左手に握ったレイピアの刀身を顔の前に寄せ、レイピアに込められた精霊を覚醒する呪文を唱えはじめた。すると刀身が青い光を帯び、炎のように揺らめきはじめた。目前の男を睨む。そして、叫んだ。
『行け!!!!』
 少年達は弾かれたように、両側からエンデニールの体を抱え、走った。エンデニールの口が噤まれると、彼の魔法の防壁は押し潰されるように一瞬で消えた。空気が───割れる。
 その刹那、レムディンはレイピアを敵めがけて矢のように放った。青く輝く雷のようなレイピアが大きな火の塊になり、邪悪を切り裂き一瞬で敵の心の臓を貫いた。
『あああああああああああああああ!』
 胸に深々と刀身を飲み込み、敵は凄まじい叫び声をあげた。それと同時に突風が巻き起こり、館全体が大きく揺れた。レムディンは床に投げ出された。天井が崩れ落ちてくる。突き上げるような震動の中、レムディンはエンデニールの名を呼んだ。誰のものとも分からぬ悲鳴と、破壊音が交錯した。落ちてくる破片を避けながら、レムディンはエンデニールの姿を捜した。震動がようやく静まると、失くした右腕を庇いながら、レムディンは立ち上がろうとした。辺りは霧のような塵芥が漂い、視界を遮っていた。
『エンデニール!無事か。何処に居る』
 レムディンは叫びながら、瓦礫の中を見渡した。最初に目に入ったのは、胸にレイピアを突き刺したローブの男だった。男の周囲は、まるで掃き清められたかのように瓦礫に避けられていた。
『エンデニール!』
 名を呼び、視線を送ると、大きな柱が倒れているのが見えた。その下に、蹲る人影があった。目を凝らすと、エンデニールを支えていた少年のようだった。レムディンが近付くと、少年は横倒しになった柱の隙間から自力で抜け出したところだった。
傍に寄ると、どうやら無傷の様子だった。エンデニールは───訊ねようとすると、瓦礫がごとり、と動く音がした。
『ジヴラール!無事か』
 瓦礫が山となった奥から、もう一人の少年が姿を現した。
『カイエス』
 ジヴラールと呼ばれた少年は、名を呼ばれて安心の笑みを浮かべた。
『エンデニールは、どうした』
 レムディンは周囲を見渡した。しかし、エンデニールの気配はなかった。少年二人も同じように見渡す。そして、三人の視線は同じところで凍りついた。ジヴラールが下敷きになっていた柱の下に、かつて入り口であった扉とその周りの壁が崩れ、山となしていた。
 その扉の下に、白い手がはみ出していた。
賢者の死