マキュージオは尋ねた。
『逃げることは、かなわないのでしょうか』
 サラフィナスは悲しそうに天を仰ぎ見た。
『今まで何度、考えたことか。仮に運が良かったとしても───こうして長い間過ごしてみてわかったのですが、実を言えばここにいるすべての人間が、ここから逃げたがっているのです。兵士たちも、町の民もです。ほとんどの人々があちこちからさらわれて来て、ジアコルドの恐怖という、足枷をつけられ生かされている。彼らの、脱出することに対する執着と、互いの実行を阻止しようとする牽制には、すさまじいものがあります。それを思うと、とても逃げられない───まだあなたにはわからないかもしれませんが…今は時を待つことです。そうすれば…』
『ジアコルドは近々死ぬ、と?』
 マキュージオが言うと、サラフィナスは目を伏せた。
『…彼の病気は確かに深刻ですが、それよりも先に、クーデターが起こるかもしれないのです。生き残っている錬金術師や、要塞建設の指導者たちの間で、動きがあるようなのです。民は、秩序のかけらもない盗賊の支配など、もはや望んでいません』
『───ではお前が王になるか?サラフィナス』
 突然、向こうから声がすると、ジアコルドが恐ろしい顔つきでやって来た。
 サラフィナスはみるみる青ざめ、体をこわばらせた。ジアコルドの手には、すでに抜き身の剣があった。
『側近の分際で、そのようなことを吹聴してまわるとは』
 ジアコルドは、サラフィナスの腹部を強く蹴り上げた。サラフィナスは悲鳴をあげ、床に転がり、のたうちまわった。その上を靴底で踏みにじりながら、ジアコルドは剣をふりかざした。するとその前に、マキュージオが立ちはだかった。
『邪魔をするな』
 ジアコルドは苛立ち、怒鳴った。
 しかし、マキュージオは無言で、その場を動こうとしなかった。
『それともお前も斬られるか』
『…ここで血を流せば、あなたの王としての威厳はますます失われるでしょう。館の外へ出ることのないサラフィナス殿がおっしゃることに、根拠などあろうはずがありません』
『では俺が、噂に惑わされていると?』
『………』
 マキュージオは黙っている。
 ジアコルドは、剣をおさめた。怒りはすっかり失せていた。そして、いまだに床に伏したままのサラフィナスを一瞥すると、藪医者め、と毒づいた。それから、マキュージオに向き直った。
『明日は狩りに出る。お前もついてくるがいい。弓の名人芸を披露してもらおう』
 そして背を向け、大股でその場から去っていった。
 マキュージオは、いまだに下でうめいているサラフィナスを見た。
 サラフィナスは、ぶつぶつと小声で何事かをつぶやいていた。

 翌日。マキュージオは十一日ぶりに自分の馬と、武具を返され、ジアコルドの狩りの一行に加わった。ジアコルドの意図はよくわからなかったが、サラフィナスによれば、どうやらジアコルドはマキュージオを自分の配下にしたいと考えているらしかった。
 道中には、サラフィナスも加わり、その他ジアコルドの兵士が10人ほどついてきた。
 そして、日が高くなったころ、人々は狩場である山中の平原に出た。
 ところが、しばらくすると天候はあやしくなってきた。
 雲が太陽を隠してしまうと、彼らの肩を雨粒がうちはじめ、ジアコルドはしぶったが、サラフィナスになだめられて、ようやく帰途につくことになった。
 しかし、雨はだんだんひどくなっていった。
 一行は、足下に注意しながら来た道を戻ったが、強い風が吹きつけ、谷を進む馬の足をひるませた。
 すぐ真下に見える沢はすでに増水して、大きな渦を描いている。
 谷の斜面はなだらかだったが、落ちてしまえばどうなるか、想像は容易だった。
 その時、突然稲妻が光った。そして、凄まじい轟音が辺りをおおったかと思うと、一同の頭上から、土砂が一気に崩れだした。
『山崩れだ!!!』
 誰かが叫んだ。が、すぐに落下してくる岩や泥の勢いでその声はかき消された。馬がいななく。人の悲鳴があがった。一同は混乱した。マキュージオは泥に呑み込まれながら、なんとか手綱にしがみついていた。が、視界は次々と落石の雨で混乱し、逃げ場さえ見当たらなかった。ひとりの兵士が馬と共に、谷底へ滑り落ちていく。そのあと、大きな岩が後を追うように転がり落ちてきた。その岩の陰に隠れるように、泥まみれで投げ出されたジアコルドが見えた。
 彼の体は、ずるずると斜面をすべっていく。
『ジアコルド!!』
 マキュージオは叫んだ。それと同時に、マキュージオの頭に大量の泥が被さってきた。マキュージオは、手綱を離し、泥の波に呑まれ、谷底へ、落ちた。

 マキュージオは、意識を失わなかった。谷底から沢へ落ちる寸前で体勢を整え、近くの木にしがみついた。そして、足を何度もとらわれながら泥の山を越え、同じように木の枝に引っ掛かるように体を横たえているジアコルドのそばへ近寄った。
ジアコルドは、気を失っていたものの、重傷は負っていない様子だった。
隻眼王
 
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