セヴェリエはその場に身を固くしていたが、エンデニールの反応は、遅かった。というよりも、すぐに身動きがとれなかったのだろう。セヴェリエが部屋を覗いてみると、エンデニールは机の上でやっと体を起こしたところだった。
 とがめる気配は微塵もない様子で、エンデニールはセヴェリエを部屋に招き入れた。
 広々とした書斎は、棚にぎっしり詰まった書物の他、多種にわたる薬瓶と鉱石の並ぶ棚があり、天井には干した薬草の束が吊されていた。 セヴェリエが入ってきた入り口とは別に、壁面には扉が3つあり、少し開いたひとつから書庫が覗いていた。あとの二つのいずれかは、ハザが出ていった扉だろうか。大窓の外には三日月が昇っており、まばゆいばかりの光を室内にもたらしていた。
 エンデニールは机の上に膝を立てて腰掛けたまま、セヴェリエに傍らの長椅子をすすめた。向かい合ったセヴェリエの表情を見て、言った。
『軽蔑するかね』
 エンデニールは、鈍重な動作で机から脚を床に降ろす。夜着の前は全て開かれ、白い胸から腹、性器まで剥きだしの状態であった。さらに下の脚の付け根の方から粘ついた汁が伝っているのが目に入った。思わず、目を逸らす。
『ごく日常的なこと……まあ、最初の頃よりはましだ。失神させてしまっては興醒めだと学習したらしい…ところで、君の用件の前に……先に体を洗いたいのだが』
 セヴェリエの表情を察して、では、とエンデニールはゆっくりした足取りで扉のひとつに向かうと、その中へと姿を消した。
 エンデニールが体を洗っている間、セヴェリエは長椅子に掛けたまま、部屋を見回した。
 セヴェリエの正面にどこかの地図を模して織りあげたタペストリーが掛かっていた。
 四方を列国に囲まれ、北は山。南は森。東側には海があった。そして中央に、4本の剣の紋章があり、大きな飾り文字が記されていた。
 ─────アルヴァロン。
 セヴェリエは心の中で呟いた。数年前に滅び去った、この国のかつての名。今の瞬間まで忘れていた。血に呪われ、人々の心に恐怖と憎しみを黒々と残した根源。セヴェリエはタペストリーの北の地を見た。その地はかつてアルヴァロンの国王が棲んでおり、ヌールという都があった。そのヌールからさらに北上した山奥に、刃の丘の修道院がある。
 急激に、懐かしさがこみあげてきた。
…実のところ、セヴェリエにとってエンデニールの用件はどうでもよかった。ただ、ゾルグの傍から離れていたいがための、口実であった。過去、とエンデニールは書いていたが、むしろ過去よりもセヴェリエが気になるのは、未来である。
 できることならば今はもう一度、刃の丘に戻りたい。何もない、平穏な日々へ─────そう思った。

 半時間ほどが過ぎ、ふたたび扉が開いてエンデニールが再び姿を現すと、セヴェリエは驚いた。
 長くもつれていた髪は梳かされ、無精髭も消えていた。服も擦り切れた夜着ではなく、美しい縁取のコートを着ていた。  さながら、王侯貴族の趣だった。そしてそれ以上に目を見張ったのが、整えられた頭髪の両側に突き出た、先の尖った奇形の耳だった。
 もつれ髪で覆われていて、見落としていたのか。奇形というにはそれは自然すぎた。
 エンデニールはセヴェリエの反応を見て、薄く笑った。月明かりに照らされ、狐目が金色に輝く。

 エンデニールは人間ではなかった。ヒトの形に似た亜人種、エルフ族であった。通称・森の貴族とも呼ばれる彼らは、太古、王族の祖先がこの地へ降り立つ以前から南の樹海深くに暮らしていた。とはいうものの、俗世のことには無関心な彼らは、長い間その存在を人間たちに知られることはなかったが。
 けれどもそれが数百年前、王家と血縁を結んだ。南を治めるオエセル家である。その後、オエセル家は人間とエルフの血を代々受け継ぎ、南の地のエルフと人間の共存に根ざした統治を行った。
 しかし、それでも彼らエルフが、国内の南の地以外に姿を現すことはなかった。
─────不死とも言われる寿命は、数千年にも及ぶという伝説の種族。
 その1人が今、セヴェリエの目の前にいる。
 しかし直後にセヴェリエの脳裏をかすめたのは、先程のエンデニールの姿であった。
 歴史ある、誇り高い森の貴族が、まさか同性の、野蛮な山賊に体を開くとは、到底信じがたかった。
 それから、エルフ達のもうひとつの顔である。
 すなわち、魔法を使う種族だということを、セヴェリエは思い出していた。唯一絶対の神を信仰する宗教に属するセヴェリエは、エルフ族は魔族と認識させられている。彼らの魔法の神は、自然の至る所に存在し、彼らはその力を巧みにつかい、世の人々を陥れ、地獄の王の奴隷に仕立て上げるという。…セヴェリエの育った北の地では、子供の寝物語であるとともに、民間に根強く信じられている“現実”であった。

『エルフ族を見るのは、初めてのようだな』

 セヴェリエは畏怖の形相で無意識に、胸元のロザリオを服の上からたぐり寄せた。
 エンデニールはその様子に構わず、セヴェリエの目の前に来ると、ロザリオを握りしめるセヴェリエの手を掴んだ。セヴェリエは息を呑んだが、エンデニールはセヴェリエの手をそっと除けると、セヴェリエの襟元に手をさし、ロザリオの鎖を引き抜いた。
 にぶく光る青銅の小さな十字架が姿をあらわす。
森の貴族