『…聖オリビエか。ああ、清貧と禁欲、無抵抗を説いた聖人だな。すると君は、修道士か。ずっと言葉を話さぬのは、さては例の沈黙の誓いとやらか?……ふーん。聖オリビエの教典では、エルフは悪魔の化身というが………どうだね?その悪魔を目の前にして……祈りの言葉と聖水で追い払ってみるかね?』
 しかしセヴェリエの反応を待たず、エンデニールはロザリオから手を離すと、窓辺の方へ歩いていった。
 窓の前で立ち止まり、振り返る。月の光がエンデニールの髪にふりかかっている。 おもむろに、窓の硝子がカタカタと鳴った。強風が打っているようだが、それにしては、外の景色は静止していた。ふとエンデニールの顔を見ると、その唇がかすかに蠢いていた。声を発することなく、唇だけを動かしている。
 窓を叩く音が次第に大きくなる。と、部屋の床が、地響きを始めた。ぐら、と足下から体が揺すぶられ、セヴェリエは驚愕した。部屋中が、揺れている。調度品や、薬瓶が触れあい、不快な金属音を鳴らす。
 そして一段と大きな揺れが起こったかと思うと、突然床板が一気に盛り上がり、ドン!と弾けた。地底から、凄まじい突風とともに姿を現したのは、樹木の枝。それも数千、数万にも及ぶおびただしい数がわき起こり、一瞬にして、部屋中に繁茂してしまった。
 セヴェリエは、長椅子から立ちあがりかけたままの姿勢で、茫然とその光景を見た。
 枝は室内に密集してはびこり、天井はもとより足下も見えぬほどになって、ようやく静かになった。その葉を見て、セヴェリエはようやくそれが、柳であることを知った。セヴェリエのつま先が、地面の根に触れる。と、そこからぽんと芽が飛び出し、するするとのびてあっという間に若木に育った。エンデニールを見た。

『柳の精霊、ウィンダリエ。大昔から私の一族と海市館を護っている。…君達の神は、自然をただのヒトの住処と定めているが、我々エルフは、人類も草木動物の自然の一部と考える。ただ唯一知性を持つ我々は、自然の力を操る術を得た─────君達の言うところの…魔法。魔術。錬金術。─────我々はその使い手を降霊術師、ネクロマンサーと呼んでいる』

 エンデニールの足下から、柳の若木が次々にのびて、子が親に甘えるかのように、エンデニールの裾にまとわりついては離れる。次第にそれは発光体となり、水の膜のようになり、数人の小さな人の姿になった。
 まるで幼い少女のような姿のウィンダリエ達は、空気のように軽い体で、部屋中を飛び回り始めた。セヴェリエは、その幻想的な美しさに思わず見とれた。

『さて。改めて名乗りをあげたところで本題に入ろう。セヴェリエ』
 エンデニールは、ウインダリエ達を空に遊ばせたまま、セヴェリエに近づいてきた。
 セヴェリエは後ずさった。
 しかしその足は動けなかった。いつのまにか、柳の枝が何重にも巻き付いていた。
『君達は、ウィンダリエの結界を破ってこの館に来た』
『…っ』
 もがけばもかぐほど、柳はセヴェリエの体にすがりつくように枝を伸ばしてきた。
『通常なら、霧に惑わされそのまま森の中に閉じこめられている…ウィンダリエの力が効かぬ理由はひとつしかない。我らの力を越える上層の精霊が、君達についているはずだ。私の見解では、おそらくそれはゾルグより君の方にその可能性が高い、と思っている。人間の、それも聖オリビエの信徒というのはいささか気にくわんが、確かめさせて貰う』
 エンデニールの唇が、ふたたび声のない言葉─────精霊語を発すると、空中のウインダリエ達が反応し、枝を体中に巻き付けたセヴェリエに襲いかかってきた。ひやりと冷たい空気が顔に触れる。途端に、全身が冷気に包まれ、セヴェリエは意識が一気に遠のいた。エンデニールの声は、夢か、あるいは地の底へ誘う呪文のように響いていた。

『…我々の魔法の原理は、降霊術にある。先祖を遡り、ヒトがヒトの形をなす前の元素まで辿り着き、火・水・風・土の精霊を降霊することにより、力を自在にする。しかし多くの場合、その最上位まではたどり着けぬ…せいぜいが、その下層の……太古の生物霊までだ。四大元素の力を操る者の存在は、いまや伝説だ。君にそこまでの力があるとは思わぬが、ウィンダリエを越える力の精霊がもしも君についているというのなら、私はそれを覚醒させてみよう。君は信仰を捨てる事になるかもしれないが……君の力は…もしかすると…』

─────セヴェリエは、そこで完全に意識を失ってしまった。

 昏睡したセヴェリエを長椅子に寝かせ、エンデニールは立ち上がると机の方へ向かった。倒れた椅子を戻し、腰掛けようとして、机の表面が目に入る。
 舌打ちした。
 白濁に光る粘液が、表面に点々と染みをつくっている。
 机に向かう気は失せ、エンデニールは反対側の壁に椅子を牽いていき、そこへ腰掛けた。それからおもむろに上着のポケットからパイプを取り出し、煙草を詰めると火をつけた。異様な臭気が、煙とともに立ちのぼる。特殊な茸を乾燥させてつくるその煙草は、深い酩酊をエンデニールにもたらす。
 吸い込んでは、深く吐き出す。動作を繰り返すうち、エンデニールの脳裏に、忌々しい記憶が蘇ってきた。
森の貴族