「ちょっと!待ちなさい!!!!」
 甘い空気を破壊するような怒号が背中に突き刺さり、僕達が振り返ると、さっきから置いてけぼりだった御夫人とその息子、ついでに僕の父が並んで僕達を見ていました。
「あなた。どこのどなたか存じませんけどさっきから失礼過ぎるんじゃありません?その子、勝手に連れて行かないでくださいな。こっちの用件はまだ終わってないんですからね。その子は傷害事件の容疑者なんです。示談が終わるまでは何があってもここに残ってもらいますから」
…さっき自分から帰るとか言ってませんでしたか?それに話がどんどんややこしくなってますけど……しかし御夫人の気が済まない様子は、子供の僕にも理解できました。父のまなざしも、(こんな厄介者を二人も俺に押し付けて逃げようたってそうはさせんぞ)と静かに訴えています。
 しかしそこへ、天の救いが訪れました。
「ああ。怪我をしてるんだね」
 いつのまにか茨信さんが、御夫人の息子の前に屈みこんで、大根のような太腕を手にとっていました。
 もう片方の手が、赤い蚯蚓腫れにそっと触れます。
「何を…」
 御夫人が口を開きかけた瞬間、その目の前で息子の腕の蚯蚓腫れがみるみる消えていくではありませんか。夫人と息子、父が唖然としているのをよそに、茨信さんは蚯蚓腫れが全て消えてしまうと立ち上がりました。
「これでもう大丈夫。さあ、もうお帰りなさい」
 茨信さんが夫人に向かって言うと、夫人はさっきまでの剣幕がうそのように無表情で頷き、きょとんとしている息子のすっかりきれいなった手をとると、店の外へふらふらと立ち去っていきました。
 それを見送ってから、茨信さんは今度は父の方へ向き直り、言いました。
「藤一郎さん。そういうわけですから、柳介君と外で晩御飯を食べてきてもいいですか?」
 父は鼻からずり落ちた厚底眼鏡を持ち上げながら、あああ・ああ、と了解しました。

 僕と茨信さんは、手を繋いで夜の商店街を歩き始めました。商店街といっても、夜七時を回れば八割方がシャッターを下ろしている、さびれた通りです。
 駅の方へ近付けば、飲食店が何軒か開いているので僕達はその方向を目指しました。
 僕は茨信さんのしなやかな手の感触にドキドキしていました。茨信さんの歩調はゆっくりで、僕より高い位置にある横顔は、鼻歌でも歌いだしそうに上機嫌でした。
「何をそんなに、嬉しがってるんですか?」
僕が尋ねると、茨信さんは答えました。
「………神様がね」
 “神様”というのは、茨信さんの話題によく登場する存在でした。宗教で崇める神様とは違って、古来から伝承されている物の怪と言えば良いでしょうか。人間に悪さをする物の怪がいるように、福をもたらす物の怪も存在しているのですが、その後者の方が、茨信さんが生まれた頃から茨信さんの傍にいて、あれこれと用事を言伝したりするのです。
 世間一般常識から言えば、茨信さんのような人は然るべき施設に収容されてしまうという話を聞きますが、茨信さんがそれを免れているのはひとえに、その神様のお蔭と言えました。
 茨信さんは、神様が見え、その声を聞けるという自分の能力を活かし、他所様の抱えた問題を解決しては、たくさんの人達から信頼と感謝を得て、皆から無くてはならない存在になっていったのです。先程の子供の傷を治したように、怪我や病気を治癒させたり、憑りついた霊を祓ったり。予知能力なども持っていて、占い師としても評判でした。
 先程、僕が仕事かと茨信さんに尋ねたのは、茨信さんは普段は僕の家から遠く離れた山奥に本家の家族と暮らしているのですが、霊媒や占いの仕事がある時に限って外に出て行くからでした。ただ、いつもは事前に茨信さん本人か、本家の誰かから連絡が入ったものでしたが…
 
 ファミリーレストランに入った僕達は、食事を済ませてからデザートに取り掛かりました。と言っても、茨信さんという人は非常に偏食で、生の野菜と水しか口にしないので、僕だけが宇治抹茶スペシャルパフェを頬張っているのですが。パフェを食べながら、僕は茨信さんの<大事な>話に耳を傾けました。
「神様が、この間私を訪ねてきてね。私を連れて行くと言うんだ」
「えっ?!」
 僕は長いスプーンで掬い上げたマロングラッセをうっかり落としそうになりました。
 神様が…茨信さんを連れて行く……?
 その意味は、問いただすまでもありませんでしたが、僕は混乱しました。
「どうして…」やっと出た言葉はそれでした。
「私がこの世に生まれた時からの約束だったのだけれど………私はね、柳介君。実をいうと人間ではないんだ」
「はあ」
「神様の、供物なんだよ。人の子として一応は生まれるけれど、大人になったら神様に全てを捧げなくちゃならない。そういう宿命なんだ。でも……流石に、こんなに急だとは思わなかったけれどね」
 まるで天気の話のような口ぶりでした。
 茨信さんが、神様の供物…
 急に言われて、誰が理解できるでしょうか?確かに色々風変わりな茨信さんです。けれども、周囲の人々は皆一応は茨信さんを人間であり、家族だと思っているわけですから。四十を超えても二十歳そこそこの外見で、奇怪な行動が多くても、誰かが一生面倒を見ようという空気が確かにあったのです。