「嫌じゃないの…ですか?」
 僕が言うと、茨信さんは困ったように笑いました。
「私はただの糧<えさ>だから。神様に食べられることが、私の役目なんだよ」
「………」
 僕はいつのまにかスプーンをパフェの容器に突っ込んだまま、両手を膝に置いてしまっていました。茨信さんはそんな僕を不思議そうに眺めていますが、僕の気持ちを推し量ろうというつもりはなさそうでした。
「だからね。早く柳介君にさよならを言っておかなきゃって思ったんだ」茨信さんの口調はあくまでも淡々としていました。「柳介君は、この世界でたったひとりの私の友達だからね。私がいなくなったら、色々大変かもしれないけど───向こうの世界でも私はきっと、君を見守っているから」
 茨信さんの言葉はさりげなく、さっきの子供の蚯蚓腫れのことを指していました。
 そう───この僕も、生まれ付いてからずっと、奇妙な能力に纏わり付かれているのです。
 それも、茨信さんとは違って、人の役にはまったく役立たない能力。僕は当時十二歳になっていましたが、未だに自分の力をコントロールできず、今日のような問題を起こしたのも実は一度や二度ではありませんでした。
 そうしてその度に、フォローをしてくれたのが、他ならぬ茨信さんでした。
 茨信さんがいなくなったら…僕は……
「行かないで、というのは、やっぱりダメですよね…」
 僕はこっそりと呟いてみました。ダメに決まっているのはわかってましたから。すると、茨信さんの反応は意外でした。呟いた後、茨信さんが無言なので上目で見ると、背筋がゾクゾクするような声と表情になった茨信さんがいました。そして、こう言ったのです。
「神様に勝てるなら」薄い花びらのような唇が低い声で囁きます。「私をこの世界に戻せる。今、私の体は神様の物。神様を倒せば、私の束縛は消える。君がもしそれを出来るなら───」
 茨信さんはテーブル越しに身を乗り出して、僕の耳元に口をつけました。
「私は君の物になる」
 その囁きの、妖しさといったら!僕の耳元から遠ざかっていく茨信さんの顔を、僕は呆けて見つめてしまいました。
「僕の…?」
「君のその目は、見ているだけでぞくぞくするんだよ、私は───君が大人になったら、その時になったら………」
 飴色の瞳に僕を映して、茨信さんは言いましたが、最後の方はよく聞き取れませんでした。そして再び席に座りなおすと、何事もなかったかのような顔に戻っていました。
「じゃあ、僕」と、僕が次の言葉を言いかけると、茨信さんは無表情のまま、それを遮りました。
「でも、無理なんだよ」
 茨信さんの飴色の瞳は、一点を見据えたままです。
「今夜なんだ」神様が迎えに来るのは───茨信さんの視線は、窓の外に浮かんでいる満月に向けられていました。

 店を出た僕と茨信さんは、ひとまず僕の家の方向へ歩き出しました。
 今夜、茨信さんはこの世から消える───僕は心の中で何度も反芻しましたが、実感がわかず、もやもやだけが積もっていました。止める事は出来る。けれどもそれは、神様と戦わなくてはならない。
 僕は、茨信さんの神様に会ったことはありませんでした。しかし一緒にいる間、神様が呼んでいると言っては部屋に閉じこもったり、ふいにどこかへ消えてしまうことはよくあったし、神様からの頂き物だという色々な物を譲り受けたりして、神様の実在は信じていました。その神様と僕が……想像もつきませんでした。
 第一、茨信さんの力は僕の知る限りでも、凄まじいものばかりです。その主人というからには、それを凌いで当然といえるでしょう。僕に勝ち目がないのは歴然としていました。
「───風倉先生」
 黒木仏具店が見えてきたところで茨信さんが立ち止まったので、僕も足を止めて、目の前に同じように立ち止まっている若い男性を見ました。どこかで見た覚えのあるその人は、精悍な顔付きに眼鏡をかけ、きっちりとしたスーツを着込んでいて、この商店街には明らかに不似合いな雰囲気でした。
 でも茨信さんを見つけると、表情を崩して駆け寄ってきました。近くで見ると、年は三十歳くらいでしょうか。茨信さんより一回りは年上のようです。と、言っても茨信さんの外見上の話ですから、実際は茨信さんより年下なのかもしれませんが。風倉先生というらしいその人は、いきなり息を荒くして、茨信さんに掴みかかる勢いでした。
「本家に電話したら、ここに来ているというから…何があった」
「何もありませんよ。先生こそそんなに血相を変えてどうしたんです」
 茨信さんの口調には動揺と言うものが皆無でした。そののんびりとした佇まいに、風倉先生は段々落ち着きを取り戻していきました。茨信さんは昔から、生まれ持った空気で周囲を和ませる才の長けた人でした。
「柳介君。この人はね、風倉先生といってとても偉い大学の先生なんだ。私のことを色々調べてくださってるんだよ」
 茨信さんが僕に向かってそう紹介すると、風倉先生は僕を一瞥して、すぐに茨信さんに向き直りました。
「茨信」
 その呼び方は、なぜか僕には非常に耳障りでした。茨信さんの特殊能力は茨信さんが子供の頃からすでに有名で、いつしか超常現象だのを研究する機関にもその存在を知られるようになっていました。日本だけに限らず、海外からも茨信さんの力を確かめたいと、学者の先生方が押し寄せてきたものです。風倉先生は、そうした中で茨信さんと親しくなったような気配でしたが、友達同士にしても、ひょっとしたら年上かもしれない茨信さんを呼び捨てするのは僕は気に入りませんでした。