───思い出すのは、俺が中学の頃だ。確か2年生の2学期あたりから、学年全体にいじめが流行した。きっかけは、どこからなのかは覚えていない。誰かがいじめられると、見かねた誰かがそれを止めようとする。するとその止めようとした人間が、かわりにいじめられるというループが、延々と続いていた。だからいじめられるのは、男も女も関係なく、ついでに教師も例外じゃなかった。
そして同じ目に遭いたくなければ、いじめを黙って見過ごすしか、方法がなかった。
そうすれば、自分は被害者にならずに済んで、平和な学校生活が送れた。だから俺も、皆と同じように、そうした。
授業やホームルームで、<いじめは駄目!絶対!>とさんざん教え込まれていても、現実は、そうはいかないことの方が多い。正しいと思えないことでも、あえて止めない方が、やっかいな目を回避できる。
それは学校生活のいじめに限らず、俺が社会人になってからも、様々なことについて確信してきたことだ。
だから俺は、喧嘩はおろか揉め事の仲裁なんか、したことがない。
たとえ家族や友達、彼女と言い争いになっても、すぐ謝るし。謝っても駄目なら逃げるし。
しかし今、俺の目の前で起きている事態は、そんな俺の行動原理を、どういうわけだか崩してしまった。
「やめろ」
俺の声が、深夜のロビーに響き渡った。
そしてその言葉通りに、暴行を続けていた御陵の動きが静止する。
それまで張り詰めていた空気も変わった。
しかしそれはほんの一瞬のことだった。次第にじわじわと、周囲に違和感が漂ってくる。
御陵の目が、周の目が、そして黒木の目が、同じ言葉を俺に向けている。
───なんで、お前が?
御陵と大河内が実は親子で、過去に御陵が捨てられた事実がわかって、そして二人は激しい言い争いになり、ついに御陵が大河内に激しい暴力を振るいはじめたわけだが、それを俺が<止めよう>と思ったのは、確かだ。
でも、普段の俺からして、実際そんな度胸は持ってないはずだった。それに大体、道理からいくとこんな役目、俺より御陵の元・恋人の黒木か、現・恋人の周がよっぽど適任だ。
しかしこいつら二人が、何が原因なのか知らないが、ためらってるっつーか、なんつーか。とにかく動こうとしなかったんだ。だから。だからって………俺か?俺なのか?
つい自問してしまう。
俺の目のまん前には、御陵が立っている。立ちはだかっている、というのが正しいのかこの場合。
間近で見る御陵は、暴力の興奮のせいで、顔が赤く上気して、わずかに肩で呼吸していた。
意外に骨太で、野性的な顔だと思った。だが、近寄り難いとは思わなかった。むしろその逆で、無性に近寄りたい・もっと言えば、触れたいと、思った。なぜ、という疑問すらもどかしくなるほどだ。自分の指先が、御陵の肌に触れるイメージが頭を掠めて、俺は、正直、落ち着きがなくなりそうだった。ただ顔がきれいとか、そういうレベルじゃない…俺は、場違いな感情を必死で抑え込んだ。
現実は、そんな悠長な感想を語っている場合じゃなかった。
俺の背後には、その御陵に蹴りつけられた大河内が、満身創痍で床に蹲っているのだ。
突然現れた仲裁者・つまり俺に、御陵は最初驚いていたが、だんだん険しい眼つきになっていった。
「何だよ──てめえは?」
ぞっとするような低音。今にも蹴りかかってきそうだ。うう…
「………キフネさん……どうして……?…」
御陵に睨まれて棒立ちになった俺に、蚊の鳴くような声がそう言った。振り返ると、大河内が蹲った体勢からやっと首だけ伸ばして、亀のように俺を見上げていた。その顔面は、鼻血も鼻水も涙も垂れ放題だった。口の中まで切ったのか。血が顎に伝っていた。ひどいな…
「誰だか知らねえが、余計な世話すんじゃねえよ。───どけ」
口早に、御陵は俺を押し退けて大河内に襲い掛かる。しかしその肩を、俺は掴んでいた。
俺は自分で自分自身の行動を信じられなかった。
それは、御陵も同じらしい。唖然となって俺を見返してきた。
「キフネさん!?」
黒木の声で我に返った御陵は、再び忌々しげな表情に戻ると、俺の手を跳ね除け、一歩退いた。そして俺を値踏みするように眺めた。
「お前、何?こいつの関係者?」
顎を上げ、白い喉を晒して御陵は俺に尋ねた。視線は、大河内を指している。
「あ……うん、俳優としてスカウトをね…」
大河内が返答する。
「ちょっと黙ってて下さい」
後ろを振り返り、俺は言い放った。大河内は、はい、と言って口を噤んだ。
「俺は…」
「御陵くーん。その人はキフネさんだよー。ヨダカヘビにとり憑かれて肛門性愛の肉欲の虜になってしまったサラリーマンだよー」
「あんたも黙ってろ!!!!!!どさくさに紛れて何言ってんだ!!!」
黒木の寝ぼけ眼が点になり、はい、と従った。
「×○広告代理店の…」
周の声がした。
「いいから全員黙りやがれ!!!」
すると周、黒木、大河内の三人が揃ってはい、と返事した。なんなんだこいつら…
「────で?何なんだ?」
呆れた顔で御陵がもう一度俺に向かって訊ねた。