まさか、あの、天使の王国が解体した原因が、大河内さんだってのか?!信じられない…
「本当なんですか、それは?」
 黒木まで身を乗り出してきた。
「このおじさんは、こう見えてやり手なのよ。ただのAV屋かと思いきや、各界にお友達がいらしてね。…あんたがもう少し手を緩めてくれりゃあ、あんな大事にはならなかったんだけどねえ。監督?」
 溜息混じりの周に対して、大河内は、周を恨めしそうに見上げている。
「あんたが…一夜をあそこでどう扱ってたか、知った時」
 その瞬間、御陵の顔色が変わった。目を見開き、大河内を見つめている。さっきまでの目つきとは全く違う。
 さっきまでは、まるで汚い物を見るような目だった。でも、今は……
「あたしは……死ぬほど後悔したよ。ほんとに、死ぬほど…そして誓った。絶対に、一夜をあんたから取り返そうと……あたしは、最低な人間で、最悪な父親だけど……一夜は、この世でたったひとりの、あたしの一番大事な息子なんだ。あたしは、この10数年、あんたの顔を忘れたことはなかった……」
「俺を恨むのはおかど違いだよ。俺はただの中間管理職。上から言われたことに従ってただけだ。言ってみりゃ被害者さ、俺も」
「あ、あ、あんたなんかとあたしを一緒にして欲しくないね!!……あんたらに放火された興信所の人は大火傷を負って、夜道で襲われた探偵さんは、腰を折っていまだにリハビリ療養中。それに、それに…!」
「何だい、今度は俺に恨み言かね。───息子はほったらかしでいいの?」
「一夜───」
「おい…」
 俺が声を掛けても、御陵は放心したかのように立ち尽くしていた。
「………」
 さっきまでの狂暴さは既に消えていた。だが、冷静になっているという気配でもない。何をどうしたら良いのかわからなくて、ただ、混沌としている。そんな感じだった。
 そこへ、間の悪さを全身から放ちながら、黒木がフラフラと近寄ってきた。おずおず、と御陵の背後に忍び寄る。
「ごりょうく…」
「一夜」
 その声を遮って、誰かが御陵の背後に素早く立って、肩に手を回す。抱き寄せる。───周だった。
 御陵はいともたやすく、周の肩に凭れかかった。
「もういいよな。行こう」
 周が短く促すと、御陵は無表情で、その言葉に従った。
「一夜。駄目だよ、そんな奴について行っちゃ!!」
 大河内は立ち上がろうとしたが、力が入らないのか、蹲った体勢からわずかに上半身を持ち上げたところで止まった。肩がワナワナと震えている。
「過去は過去。今は今。紆余曲折あれども一夜は今、俺の物───これにて争い無用でお開きですよ、皆さん。気が向いたら、連絡するわ」
 周が肩越しに振り返って言った。サングラスの奥の不気味な目が、じゃあね、と笑う。
 御陵はというと、後ろを振り返ることはなく、周に肩を抱えられたまま背を向け、開けっ放しだった玄関の方へ出て行く。
「あぁ…」
 黒木が情けない声を上げる。傾いていくその背中を、俺は上着を引っ張って止めた。
「追っちゃ駄目ですってば、黒木さん!」
「だって…だって…」
 寝惚け眼が限界まで垂れ下がっている。
「御陵くん…」
「──── 一夜」
 突然、俺達の背後で、声がそう呼んだ。大河内だった。
 周達の姿は既に玄関の外に出ていた。しかし大河内の声で、御陵の足が──止まった。振り返ることは無く、そのまま、動かなくなる。
 大河内は蹲ったまま、しばらくその背を見つめていた。そして、言った。
「今まで、本当にすまなかった───こんな父さんで、ごめんな。……会えて、よかった。体に…気をつけて…元気でな」
 声は小さかった。囁くような声だった。最後の方は、近くに居た俺でもよく聞き取れなかった。
 しかし御陵は、大河内が言葉を言い終えるまで、待っていた。そして再び歩き始めると、もう二度と立ち止まることはなかった。

 騒動の去ったロビーに残ったのは、ふられ男1人、子別れ親父1人、そして俺──と、思ったのも束の間だった。
 廊下の奥で、急激にざわざわと大勢の気配が猛スピードで現れたのだ。
「しゃちょおおおおおおおおおおおおお」
「ご無事ですかああああああああ」
 口々に叫びながら突進してきたのは、ゲイ能大河内組のスタッフ達だった。皆、血相を変えて倒れたままの大河内の周りを囲み、救急箱から応急処置を始める。瞬く間の展開に、俺は茫然としてしまった。
 こいつら、いつの間に?一体、今までどこに潜んでたんだ?
「お客様がたも大丈夫ゥ?」
 裏声を上げて、青髭の男が俺の肩に触ってきた。どう見てもいい年した中年太りのオヤジなのに、唇にはピンクのグロスが光っている。ぎょえー!
「いや、全然平気っす」
「そぅお?」
 小指を立てた爪先には、キラキラしたネイルアート。勘弁してくれ…
 逃れるように俺は、スタッフの輪の中に居る大河内に目をやった。すると何故か、傷の手当てをしているはずの男達の手は止まっていた。皆の表情が、固まっている。異様な雰囲気だった。