「御陵くんの代わりなんて、いないんです」
 心の中で勝ち誇っていると、黒木が急に顔を上げて言い放った。
「……そりゃまあ、いないでしょうね」
 俺は素直に認めた。あんな淫靡な男が、どこにでも居たら大変だ。
「いない…いない…」
「黒木さん?」
 黒木の様子がおかしい、と気付いたのはその時だった。
「御陵くんがいなければ…意味なんかない…僕の人生……意味がない」
「黒木さん?大丈夫ですか?ちょっと…」
「死にたい」
 黒木がそう呟いた直後だった。
 視界が急に暗くなった。空を見上げると、さっきまでの青空が、薄闇に変わっていた。
 ゴロゴロ…と雷の音が聞こえてくる。さらに空気が冷たくなってきた。最初、肌寒い程度だった感覚が、たちまち真冬のように寒くなる。
「な・何だ一体…?!」
 震える体を抱えながら、俺は周囲の状況にただただ驚いていた。
「黒木さん?!────」
 黒木は正面の線路の方向を向いたまま、動かない。まるでマネキン人形のように硬直している。
「黒木さん!ちょっと、しっかりして下さいよ!これ、どうなってるんですか一体全体!」
 俺は半狂乱になりながら黒木の肩を必死で揺さぶった。しかし、黒木は反応しない。おい!おい、コラ!
「───どうなってんだよー!!!!」
 その時、俺の耳にピー、という汽笛の音が聞こえてきた。
 驚いて線路の彼方を見ると、霧がかった向こうから、電車の影が現れた。重い車輪が鉄を擦りながら、もくもくと煙を上げて近付いてくる。それは間違いなく、列車だった。でも、俺が知る限りの姿には当て嵌まらなかった。
 巨大な馬の首に、魚の鱗や虫の触覚が生えているという、あらゆる動物の特徴を混ぜたような塊が、鋼鉄の質感を持って佇んでいる。声も出ないくらいの衝撃を受けて、俺はその姿を見た。
 奇妙な列車は、緩やかに速度を落とし、やがて停車した。そして、俺達の目の前の乗車扉と思わしき扉が、観音開きに開いていく。しかし扉の向こうは、真っ暗だった。灯りが消えているというわけではない。本当に何も無い、無の空間としか言いようのない、闇だった。
 それを目にした途端、俺は背中に風を感じた。──いや、違う。後ろから吹いているんじゃない。目の前の闇が、空気を吸い込んでるんだ。掃除機みたいに。
 風はどんどん強くなっていった。と同時に、横の黒木の体が不自然に、傾く。誘われるように、闇の方へと。
「黒木さん!!」
 俺は驚いて黒木の腕を掴んだ。すると、闇から来る風が急激に強くなった。
 髪が逆上がり、体が前方に引っ張っていかれる。
「ちょ…何なんだよ。これは!!!───黒木さん、駄目だってば!」
 俺の腕を解いてでも進もうとする黒木を、慌てて捕まえる。
「こんな訳わかんない物に乗っちゃ、駄目だって!」
しかし、いとも簡単に俺の手は振りほどかれ、黒木はベンチから立ち上がると、闇に向かって歩き出す。
「駄目だって言ってるだろ!」
 俺は体当たりする勢いで黒木に飛びつき、羽交い絞めにした。黒木の足先は、ホームと列車の境界で止まった。
 渾身の力を出して、引き戻す。吸い込む風は、ますます強くなっていて、踏みとどまるだけでも精一杯だった。
「ぐぐ…」
 俺は歯を食い縛った。が、その瞬間。
「うわっ…!何だ?」
 俺の足元から、突然何かが巻きついてきて、俺は悲鳴をあげた。何だ?何だ?!
 錯乱し、俺は自分の足を見た。
 ミミズのような、蛇のような長い物体が伸びてきて、ズボンの裾から中に巻きついていた。それも何本も何本も、その数をどんどん増やしながら。───目の前の、列車の闇の奥から放出されているのだった。
「うぎゃああああああ!!」
 絶叫する間にも、上着の袖から侵入してくる。
 その感覚のあまりの不快さに、俺は思わず黒木を手放しそうになった。
 太腿や肩に絡まりながら、探るように俺の服の中を這いずり回っている。やがて俺のシャツの襟からその先端がぬる…と顔を出した。首を伝って何本もの黒ミミズが這い出てきて、俺の顔にめがけて来るのを、必死に顔をそらして耐えた。服の中で、絶えず蠢いているのが、膨らんだスーツの上からでもわかる。
「うわ…っ…やめろ…!」
 ミミズの一群が、とうとう下着の中に侵入してきた。くすぐったいのに似た感覚のせいで、つい笑ってしまうが、それではない体の余計な反応に、すぐに笑えなくなる。
「あぁっ…!ちょ……あっ!!」
 毛の間に潜り込まれる感覚に、腰が捩れる。そのまま足を閉じれば良かったのだが、黒木を抱えたままだと難しかった。───足や腹を這いずり回られる感覚とは違う。当たり前だが、その部分の肌は特別なんだ…