三年
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 かつての統治者が血縁同士で争い、今ではすっかり荒廃したアルヴァロンの大地に、春が訪れた。
 凍結した山の水が溶け出してせせらぎとなり、冬を越えたつぼみが膨らみはじめると、けもの達も森の奥から太陽の当たる場所へと姿を現し始めた。
 戦争で焼けた畑にもうっすらと緑が芽吹き、かぐわしい風が人里に漂う血と火薬の匂いを忘れさせるようだった。
 数年に及ぶ戦乱の影響で、アルヴァロンの人口は驚くほどに減少したが、西のシャンドランや南のオエセルでは城下の都や町村がいくつか残っており、一部では商業・工業も回復していた。
 しかし王政が不能同然となり、かといって民主政治もままならぬ状況では、治安が悪化していく一方でもあった。暮らしを立て直そうとすればするほど、善良な人々は外道な輩たちからの強奪や暴力に悩まされるようになっていた。そして───
  春の花盛りになる頃、南の地には新たに未曾有の恐怖が訪れていた。
 南の地・オエセルは版図を広大な樹海に覆われている。樹海は、規模のさまざまな森が集まって出来ており、奥に進めば進むほど深くなり、樹齢が数百年を超える木々が要塞のようにそびえる奥は、聖なる森と呼ばれていた。けれども聖なる森には人間が立ち入ることは不可能で、途中で迷った挙句、幻覚に惑わされて発狂するという言い伝えだった。聖なる森の奥には、エルフ達が住んでいて、人間を厭う彼らが魔法をかけているのだという。 樹海に近いところに住処をかまえる南の民は、ほとんど森の中に住んでいるといってもよく、彼らの暮らしは森での狩猟と採集で支えられていたが、その言い伝えのために聖なる森に立ち入ってまで狩りをするということはなく、むしろ追った獲物が聖なる森へ逃げ込めば、見過ごしてやる傾向すらあった。
 だが───それは、あくまでも戦前の話であった。
 戦中は樹海も例外なく戦場となり、猟場であった森も、百種もの果実をもたらした森も焼失した今、食料を求めるには森の奥へと進むしかなくなっているのが現状であった。

 その日。
 とある狩人の一団が樹海の奥深くで鹿の親子を追っていた。
 森を焼かれて食糧難になったのは人もけものも同様で、ここ一年間の彼らの獲物はみな痩せ細っていたが、今日出会った牡鹿はすばらしく大柄で、角も毛皮も輝いていた。
 春に生まれたばかりであろう小鹿を2頭連れた雌鹿もやはり大柄だった。
 狩人達の心は踊り、皆我を忘れ鹿を追って森を駆け抜けた。犬を放ち、鹿の逃げ道を塞がせる。
 それぞれの犬を追いながら森の中を暫く走った後、狩人達は三手に分かれた。行く手は上空を繁り過ぎた枝葉によって覆われ、まるで宵の口のように暗く、空気がつめたかった。日が差さない地面は腐れた葉とぬるぬるした苔に覆われ、尖った石が突き出ていた。森を歩き慣れた狩人らの足は既に異変を感じ取っていたが、獲物を見つけた犬の遠吠えが聞こえてきて、迷いはたやすくも消え去った。
 狩人達は各々の弓を構え、狙いを定める準備をはじめ、息を殺して藪の中を進んだ。視界は夜の如く暗かったが、皆が熟練した狩人達である。滅多にお目にかかれない珍しい大物でも、必ずしとめる自信を持っていた。
 ところが。
 激しく吼える犬の姿を先頭の狩人が目にした。途端、その狩人が大声をあげた。
『───あれは』
 異常を察した仲間が急いで前に出る。視界に飛び込んできた光景に、今度はその場の全員が恐怖の悲鳴をあげた。そこには、彼らが見た事のないものが待ち構えていた。
 その巨体からして、それはけものの範疇を超えていた。全身を黒い被毛で覆われ、狼のように鋭い眼と、大きな口からは鋭利な刃物のような牙が伸びている。それが四つん這いになって、無我夢中で何かを咀嚼していた。
 噛むたびに顎を伝い落ちたのは赤い鮮血と、砕かれた骨と、内臓の一部だった。下顎の端に、人の腕がぶら下がっている。巨大な前脚で地面に押さえつけられているのは、喰われているものの腰から下であった。前脚の先にはやはり大きな爪が生え、獲物を地面に串刺しにしていた。
 さらに周囲に目を向けると、頭部や片足、所持品と思われる弓や身につけていた衣服が散乱していた。
 狩人達は声も出せぬほどの恐怖に震え上がった。それは間違いなく、変わり果てた仲間の姿だった。
『わああ───』
 狩人達は弓を捨て、いっせいに逃げ出した。そして思い出した。ここは禁じられた聖なる森であること、そして立ち入れば、二度とは戻れぬこと───死の予感が彼らの全神経を縛りつけ、理性を消去した。用心することを忘れた狩人らは、さらに忍び寄ってくる敵に気付けなかった。
『!!』
 急に足が重くなったと感じた時には、手遅れだった。腕の自由が奪われ、全身の動きが封じられた。視界が回転し、必死でもがく。全身に、見たことのない植物の蔓が巻きついていた。次々に悲鳴があがり、逃げた仲間全員が同じ目に遭っているのを知る。そして蔓は全身を締め上げながら、地面の上を引き摺っていくのだった。
 いくらもがいても切れない蔓は、もはや植物とは思えなかった。ぬめぬめした粘液にまみれたそれは、意志を持った生物だった。狩人達は恐怖に狂ったように叫び、暗い森の彼方に助けを求めた。引き摺られていく行き先には、巨大な木が生えていた。その幹の上から、無数の蔓が地面に向かってのびていた。
 血走った眼で見上げると、木の上には巨大な蜘蛛が花弁のような口をあけ、蜜を滴らせていた。
 もはや身動きすらかなわぬ彼らには声を出すことしか出来なかった。しかし、彼らの叫びを聞きつけて繁みから現れたのは、先ほど仲間を食い殺した黒いけものと、その同族たちだった。巨体を揺らしながら地面を震わせ、けものは新たな獲物に襲い掛かった。狩人達は恐ろしさのあまり泣き喚いた。
 黒いけものはそれをせせら笑うかのように牙を剥き、爪を振り下ろした。
 突然閃光が狩人達の視界を覆った。狩人たちは目がくらみ、瞼を閉じた。
 視力を奪われた次の瞬間、耳を劈く雄叫びがこだました。地面が揺れ、突風が起きる。強烈な血臭がして、頭上で大きな破裂音がした。そして───静寂が訪れた。
 狩人達はおそるおそる目を開けた。ぼんやりと映る森の風景に、怪物たちの姿はなかった。手足を動かしてみると、巻きついていた蔓が簡単に解けた。混乱しながら体を起こすと、辺り一面に異様な事態が起きていた。
『これは……』
『一体、何が───』
 あの恐ろしい怪物たちが全て倒され、事切れていた。大木の根元には、大蜘蛛の死体があった。どの怪物も人間の数十倍はある大きさだったが、その巨体は真っ二つに両断され、完全に絶命していた。