エンデニールの書斎を後にしたハザは、吹き抜けの廊下を歩いて階段を目指した。
 エルフ族の建築技術によって建てられた海市館の内部は、数万本の柳の根が侵食し、かつての王国の最盛が窺える所はもはやどこにもなかった。エンデニールが当主として健在だった頃は、魔法の力が清潔を保っていたのだろう。ハザが三年前に訪れた頃に比べ、海市館は急激に老いたかのように、埃や黴に汚染されていた。
(三年か───)
 ハザの脳裏に三年間の記憶がふと蘇る。それは普通に考えても短くない時間だったが、ハザにはずっと長く───十年ほどにも感じられた。
 エンデニールの寝室に入っていくと、今朝と変わりない光景がハザを迎え入れた。部屋の外以上に木の根がはびこり、床からさらに無数の柳の若木が伸びてまるで一帯が草原のように緑をたたえている。天井からは柳の細い枝葉が垂れ、まるでカーテンのようだった。
 ハザはその中をかき分けて進み、奥にしつらえた天蓋に入った。覆われた幕を捲ると、変わり果てたエンデニールが横たわっていた。三年前、この館で起きた死闘の末、瀕死の重傷を負ったエンデニールの体は、粉々になった骨と裂けた内臓を柳の細胞で繋がれて、体の半分が柳の木と化していた。運動機能を失った手足はすでに木となり、がさがさした、血の通わぬ表皮が全身に拡がろうとしていた。
 エンデニールの面影はもはや、寝台の上に波打って流れる金色の髪と顔の半分、そして微弱な鼓動を打つしぼんだ心臓のみに残されていた。ハザはエンデニールの体に降り積もった柳の黄色い花弁を払いのけ、エンデニールの隣に寄り添うようにしてその顔にかかった金髪を掬いあげた。深い絶望が、ハザを襲う。
(また拡がっている…昨日より…)
 エンデニールの顔の右目は眼球を失い、傷に柳が入り込んだ。そのせいで彼の顔の右半分はまるで仮面を被ったような異形と化していた。白く乾いた皮膚に体温はなく、無数の罅割れが刻まれ、洞のような右目部分は年輪のようなものまであらわれていた。つい最近になって気付いたのだが、柳はどうやら少しずつだが、エンデニールの体を侵食しているようだった。傷を受けていない部分までが、柳と同化しているのである。
 初めてそれに気付いたハザは激怒した。が、怒りの矛先は既にハザの目の前から姿を消していた。
(サラフィナス)
 ハザは憎悪の念を、行方をくらませた男へ向けた。鎧戸を閉めたエンデニールの寝室は暗く、闇の底のようだった。ハザは指先で、エンデニールの瞼を撫でた。わずかになった血の通う部分は、触れただけで砂のように崩れてしまいそうだった。
 まるで子供の体のように小さくなったエンデニールの半身は、今にも消え入りそうな呼吸を繰り返していた。生きている。その実感を味わった途端、苦しみが堰を切って胸の中に溢れてくる。何故、こんな目に遭わなくてはならないのだ。
 何故─────俺ではなく、お前が。
(神よ)
 苦しみから解放されたい一心で、ハザは唱えた。
(お前は自分に祈りを捧げぬ者は救わず、害を与えるとでもいうのか)
 その時ふと、セヴェリエの顔が過ぎった。
 三年前に出会った頃、セヴェリエは聖オリビエの修道士だった。もっとも正確にはその見習いという話だったが。
 海市館が破壊され、エンデニールが倒れたその日、その場に居合わせたセヴェリエは、北の地から訪ねて来た旅人だった。戦闘に巻き込まれたセヴェリエは、エンデニールと同様致命傷を負ったのだったが、エンデニールとは違い、驚くほどの速さで完全に回復した。その様子を見ていたサラフィナスが彼に魔法の素養を見出し、年月をかけて彼を魔法使いへと導いたのだった。
 けれどもその道は、決して順調なものではなかった。
 ハザの脳裏に、急激にはっきりとした映像が浮かび上がった。現実に外で鳴っている雨の音が小さくなり、頭の中の雨音が大きくなっていく。
森全体を揺さぶる風までを思い出すと、記憶の再生を止めることはもはや不可能だった。

(俺が望んだ結果は、これではない。────断じて)
 記憶の中のハザは、三年前の海市館に居た。拳を震えるほど強く握り締め、扉に打ち据えたまま、一歩も動けず、何処へも向けることの出来ない怒りを持て余していた。
『救うことは出来ないのか。もう何も、なす術はなく…このまま見守るしかないのか』
 閉ざされた扉に額を擦り付けるようにして、ハザは呻いた。その隣には、サラフィナスが立っている。顔を見ずとも、どんな顔をしているのかはわかっていた。青褪めて、おどおどと自分を見ているはずだ。年長者で尊敬されるべき遍歴の医者でありながら、慢性の持病のような無責任を、ハザはひどく嫌っていた。おそらく問いの答えは、<不可能>だろう。そう返されれば、頭を殴りつけてやる気だった。
 ところが、サラフィナスの答えは意外にもその反対だった。
『出来ないこともない───』
 ハザは思わずサラフィナスを振り返った。怯えてはいたが、声に張りがある。ハザはサラフィナスに向き直った。
『何と言った。本当か』
『ただ』
 サラフィナスは詰め寄ってくるハザを押し留めて続けた。
『確率は非常に低い。それに、協力者が必要だ』
『教えろ、どんな方法だ』
 ハザの目は血走っていた。サラフィナスの胸を掴み、廊下の手摺にまで押し出す。『こんな状況で気休めを言うほど、貴様も野暮ではないだろう。いい加減なことを言うと突き落とすぞ』
『…ひ』
 頭上から三白眼に脅された挙句、胸倉を掴まれてサラフィナスの両足が宙に浮いた。手摺の外側は、地上二階の吹き抜けである。
『やめろ。頼むから、落ち着け』
『………』
 ハザは無言で手を離した。
『………柳の精霊に、交信を試みるのだ。そして、精霊とエンデニール殿の契約を解消させる』
 息を継ぎながら、サラフィナスは言った。
三年