狩人達はあまりに壮絶な光景に茫然としていたが、ふと誰かが、あっと声を上げた。
 人の気配が、ブナの木立の中に立っていた。
 狩人達の間に緊張が走る。
 気配はやがて形を成し、狩人達の前に完全に姿を現した。
 銀灰色の長いローブを纏ったその人物を見て、狩人達の胸には一瞬エルフ族の姿が浮かんだが、そのひとに尖った耳はなかった。しかし生身の人間とは思えない不思議な佇まいで、まるで大昔の霊魂のように感じられた。
 ローブの人物は、狩人達の中心に近付いてきて、膝を折った。間近で見るそのひとはやっと青年と言えるほどの若者だったが、王侯貴族のような只ならぬ気品があった。
 狩人達は幾分落ち着いてはいたが、警戒しながら不思議な若者の行動を見守った。
 不思議な若者は、目の前の狩人に手を差し出し、細い鎖のようなものを狩人の手に握らせると、口を開いた。
『魔物の腹に入っていた。あなた方の仲間の物でしょう。───私がもう少し早く来ていれば、助けられたかもしれなかったのに…残念です』
 若者は悲しそうに目を伏せた。狩人が手を開くと、血に汚れてはいるが、確かに見覚えのある首飾りがあった。
 先ほど喰われていた男のつけていたものだ。
『あなたが…我々を助けてくださったのか?この、魔物も』
 狩人の一人がおそるおそる尋ねた。それを切欠に、他の狩人達も抑えていた好奇心を若者に向け始めた。
『あなたはもしや、エルフなのか』
『教えてくれ、あなたは何者なんだ───』
 しかし、注がれる問いを遮るように若者は立ち上がり、背を向け、狩人達から遠ざかった。狩人達は慌てて礼を言い、無礼を詫びたが、その声を聞くこともなく、若者の影は森の奥へ消えていった。
 取り残された狩人達に、一陣の風が吹き、その風に乗せて声が聞こえてきた。
(ここから早く立ち去りなさい。そして里に居るあなた方の仲間に、ここへはもう近付かないよう、伝えなさい。死んでしまった仲間は私が弔っておく。さあ、早く───血の匂いを嗅ぎつけた別の魔物が寄ってくる。その前に)
 声が言い終えぬうち、狩人達はいっせいに立ち上がり、もと来た道を目指して走り出した。
 それぞれの村に戻った狩人達は、若者に言われた通りに他の狩人達にも見てきたことを伝えた。するとそれが発端となり、近頃頻繁に樹海周辺で起きていた村人の失踪や家畜の怪死、農作物の被害といった原因不明の事件が、すべて樹海の魔物による仕業と疑われるようになった。南の樹海に、魔物が現れた───それまでは作り話と思われていた噂が、実際の事件として初めて証明されたのである。
 そして魔物の噂と共に、狩人達の命を救った銀灰色のローブの若者は、南の領民の間で<銀色の若賢者>と名付けられ、広く話題になっていった。
 それというのも、魔物による死者を出したにも関わらず、警告を無視した狩人がその後も何人も森の奥へ迷い込み、案の定魔物に襲われたところをまたも銀色の若賢者に救われたのである。
相次いで目撃者が増えると若賢者の実体も明らかになっていき、強力な魔法を扱えることや聖なる森の周辺に必ず現れること、男性でありながら、出会った狩人達がその姿をもう一度見たいと魅入られるほどの美男子であること───そして近頃では、こんな噂まで流れていた。
 <銀色の若賢者>が、かの呪われた柳森に住んでいるらしい────

 セヴェリエは深い瞑想から覚め、周囲に意識を向けた。
 そこは、海市館の中のエンデニールの書斎であった。まるで宮殿の中の一室のように広い、天井の高い部屋は、無数の本で埋め尽くされ、薬棚や標本棚でずいぶん狭苦しくなっている。
三年前、ここで大爆発があり、部屋の大半が崩れたのも、狭苦しさの原因だった。
その時に破壊され、修復不可能になった天井や柱を今補っているのは、網のようにはびこった柳の枝である。何層にも折り重なった枝が壁となり、柱となって破損を補修していた。柳の木は、この館の一帯を囲む柳森の精霊であった。
 柳森の精霊とは、何千年もの歳月を経た柳が魂と力を得た<意思>である。それが、三年前に命を落としかけた海市館の主人・エルフ族のエンデニールの命を救うためにエンデニールと一体化し、命を共有する関係となった。
しかしエンデニールは死は免れたものの、意識は永劫に戻らぬまま生き続けることになり、また柳森の精霊も、力の多くを失い、今はただの木として成長を続けるという次第で、セヴェリエの力をもってしても、もはや交信はかなわぬ状態であった。
 大窓に目を向けると、雨が降っていた。セヴェリエは椅子から立ち上がると、窓の傍に立った。ずいぶん前から降っていたのだろう、庭の芝に水が溜まり、柳森から霧が上がっている。
(ハザ達はもう戻ってくるだろうか)
セヴェリエは思い立ち、書斎を出た。円形の吹き抜け廊下から大扉の方を見下ろしたが、その気配はなかった。
2階のエンデニールが少し気になったが、2階へは降りずに再び書斎に戻ると、セヴェリエは開きかけていた本の前に座った。もともとはアルヴァロン王家の史書を集める機関だったというだけあり、海市館には大昔の書物が多く保管されていたが、今セヴェリエが開いているのはその中でも最も古いとされるものだった。書かれている文字も現在アルヴァロンで常用されている文字ではない。アルヴァロンの始祖が現れる前からかの地に生きていた民、エーン・ソルフの文字である。セヴェリエはその歴史を、エンデニールが記したエーン・ソルフ語の辞典とともに読み進めているのである。
 序盤を読み終えたセヴェリエは、この本がエーン・ソルフの王の日記であることを知った。エーン・ソルフは王という存在があっても、アルヴァロンのように階級に権力を割り当てるということはなく、王以外の人間の立場はほぼ平等であった。そのせいか、王であっても身辺のことは大抵自身で行ってきたようだった。
自分達の国は未完成だが、人々が平和に暮らせる未来のため努力し続けるという意志を、王は随所に書き残していた。序盤の内容は、そうしたエーン・ソルフの成り立ちが記してあった。
 ふと溜息をついて、雨の音が一際大きくなっているのに気が付いた。構わずに本に目を落とす。が、すぐに集中を乱された。椅子の背に凭れて楽な姿勢を試みたが、背中から疲労感のようなものがせり上がってくる。それは重度の欝であった。
 雨音が聴覚ではなく、脳の中で鳴り出した。セヴェリエは深く息を吐き、再び瞑想に入ろうとした。
 しかし風に揺れた柳の枝が窓を打った拍子に、瞑想が途切れてしまう。
 窓を見る。すると窓硝子に人影が浮かんでいた。
(ハザ……いや、これは───私だ)
 人影は、セヴェリエの胸の内で次第に姿を変えていった。
 重い灰色の修道服に身を包み、怯えた目をした───三年前の私だ。
 その胸に下げられた聖オリビエの十字架を、現在のセヴェリエは悲哀の眼差しで見つめた。
 もう信仰は捨てた。そう決心したのだ。
 つい、囚われそうになる想いを振り切ろうとした。
三年