ハザが再び目を醒ますと、光は消えていて、あたりの光景は静寂な夜を取り戻していた。そしてサラフィナスとセヴェリエの姿が消えていた。 遅れて気が付いたブレイムを伴い、ハザは海市館へ向かった。正面の大扉を開く。
 ほのかに明るい館内は、不気味なほど静まり返っていた。ハザは真っ先に2階へ上がり、エンデニールの寝室の前に立った。柳の枝が扉全体を封じ込めるように覆っている。おそるおそる手を伸ばし、表面に触れた。硬い木の皮の感触。それ以上は何も起きなかった。
『………』
 扉を押す。隙間に密集した枝がパキパキと音を立て、扉は自然に奥に開いた。ハザは深い感慨を覚えながら、部屋の中に一歩踏み入れた。二年もの間、閉じられていた空間は思った以上に柳がはびこっていた。その中を進み、天幕が降りたままのエンデニールの寝台に近付く。手が震えていた。心臓が早鐘を打っていた。けれども天蓋の中でハザを待っていたのは、この上なく悲しい現実だった。 
 柳の精霊は消滅し、実体である柳の巨木だけがエンデニールの命と繋がったまま、そこに残されていたのである。それをハザに伝えたのは、後に館の中から姿を現したセヴェリエだった。詠唱の途中で姿を消したセヴェリエは、光に驚いて気を失い、気が付くと館の中で倒れていたという。
 翌日セヴェリエは巨木に残された精霊の力への交信を試みたが、状況の好転には至らず、せめてエンデニールの肉体への侵食の速度を抑えるのみにとどまった。

 そしてその日以降、海市館からサラフィナスの姿は消えてしまった。
 魔法に失敗した責任から逃げて失踪したのだとハザは悪態をついた。しかしそれからいくら月日が経っても、サラフィナスは戻ってくるどころか、行方すらわからなくなった。 セヴェリエだけがその身を案じていたが、それから暫く経ったある日、樹海に奇妙な生き物たちが姿を現れるようになったのだった。

 海市館で最初にそれを見つけたのは、獣使いのブレイムだった。彼が樹海の奥深くにある聖なる森で拾ってきた鳥の死骸は、蜥蜴のような尻尾と、人間の頭部を持っていた。それを発端に、聖なる森では次々に、異常な生態が出現しはじめ、驚くべきことに日が経つにつれて、さらに大きな個体、凶暴な個体が姿を見せ始めたのである。
ハザは最初の奇妙な鳥を見ただけで、実際に見たわけではなかったが、ブレイムの話は充分に説得があった。
そして鳥を調べていたセヴェリエは、その生態をさらに詳しく調べる為にブレイムの案内で聖なる森へ向かったのである。
『正気か。もし魔物に襲われたらどうする』
 ハザはセヴェリエを引き止めたが、セヴェリエは聞かなかった。
『サラフィナスがそこに居るような気がする』
『あいつが?……あいつの仕業だというのか』
『違う。ただ予感がするだけだ。心配ない。少し見てくるだけだ』
『俺も行く』
 しかしセヴェリエは静かに首を振り、痩せた体に灰色のローブを纏い、出かけていった。深緑の眼が最後にハザをとらえた。 背筋に悪寒が走った。それ以上ハザは何も言うことが出来ず、茫然と見送った。

 それから幾度となく、セヴェリエは聖なる森へ行くようになった。はじめはブレイムが随行したが、すぐに一人で出かけるようになり、早朝出て、その翌朝まで戻らぬこともあった。魔物に襲われることもあったが、全て魔法で撃退し、ローブに夥しい返り血を浴びて帰還した。 ハザはセヴェリエに深く干渉するのを止めることにしたが、聖なる森へ行く理由がサラフィナスの行方探しだということだけは、気に入らなかった。ハザはいつかセヴェリエに言ったことがある。
『もしサラフィナスが見つかって、ここに戻ることがあれば、俺は奴を生かさないだろう』
 セヴェリエは森へ行かぬ日は、エンデニールの書斎で文献を読んでいた。魔法の鍛錬をして、一日でも早くエンデニールを救うためだった。黴臭い古書をめくる指を止め、窘めるように答えた。
『お前にとっては仇でも、私にとって彼は師だ。私に第二の人生を示してくれた。───それに、エンデニールを救うには彼の力が必要だ。私ひとりでは、途方もない時間がかかるだろう。彼に魔力はないが、医師の才能と豊富な知識は類稀なものだ』
 正面からハザを見つめるセヴェリエの顔は、怜悧な輝きを放っていた。ここへ来た頃とはまるで別人の顔付きだった。魔法の理知と力が自信となってみなぎっていた。 ハザは黙ってその顔を見つめ返した。まるで誰かを思いださせるようだった。
 ハザの熱を帯びた視線に気が付いて、セヴェリエは目を伏せ、姿勢を戻した。ハザも気まずくなり、書斎を出た。それからも結局サラフィナスの消息は掴めぬまま、ハザが苔穴の世話や周辺の警備に忙しくしているうち、月日は過ぎて行った。 ハザはその間、毎日欠かさずエンデニールの容態を見守った。けれども状況は、非常に緩慢に、しかし着実に悪化していくのだった。

 思いに囚われていたハザは、ふと顔を上げ、急いで部屋の外へ出た。三階を見上げる。書斎にまだセヴェリエが居るのかわからなかったが、胸騒ぎがして階下へ行くと、玄関の大扉を開いた。雨は上がっていて、雲の切れ間が見える。しかしそれを眺めても、ハザの緊張は解れなかった。それどころか、ますます強くなり、周囲に警戒の目を光らせた。正面の海市館の庭は一面の芝生で、その周囲を背の低い柳の木が囲うように立っている。木の高さは遠ざかるほど高くなり、絶妙な緑の色彩を描いている。 その時背後にセヴェリエが現れた。深緑の瞳が森の奥を見つめている。
『柳森の前に訪問者が来ている』
『何だと…』
 柳森には現在、セヴェリエが新たに結界を張っていた。
 庭に出たセヴェリエは、訪問者が待つ森の入り口を目指して歩き出した。ハザは慌てて灰色のローブ姿を呼び止めた。
 追いついて、隣に並んで歩く。
『相手が何者か、わかっているのか』
『さあ…』
 謎めいた口ぶりで暈したまま、セヴェリエとハザは柳森の入り口に近付いた。視界の先に、相手の姿がぼんやりと見えてきた。数人、いや、それ以上の団体だった。体格からして、全員が男だろう。騎乗の者もいるようだった。ハザは用心しながら、無意識に腰の柄を撫でた。そしていよいよその実体とあい見えた。 盾と旗に描かれたエルフの乙女の紋章。兜についた白い翼。それは、南の領主オエセルの城騎士たちに間違いなかった。そして彼らの目は、自分達を迎え入れたセヴェリエに集中していた。
 細い肩を包む銀灰色の長いローブ。深い緑色の瞳。顔にかかる髪さえ優雅に見える気品に、彼らの眼差しはますます無遠慮な詮索をはじめ、察したハザはセヴェリエを庇うように立ちはだかった。
 すると、城騎士達の奥から一頭の白馬が出てきて、馬上の騎士が降りてきた。驚くほど若い娘だった。
 城騎士と同じ紋章のついたマントを肩にかけ、軽装だが宝石のついた豪華な身なりをしているところを見ると、王族の人間なことは瞭然だった。令嬢は、部下たちの無礼を詫びるように一礼した。その動作はいかにもな高貴さが滲み出ていた。
『そなたが<銀色の若賢者>殿?』
 白に近い金色の髪が隈取る卵形の顔は、ひと目で虜になってしまいそうなほどの美しさだった。ハザはついうろたえ、身を退いた。令嬢の体は甘い花の香りを纏っており、それがますます心を乱すようだった。

『部下達の無礼をお許しくださいませ。───オエセル領主第三王女ニンフレイですわ』

 白い花弁のような手をセヴェリエに向かって差し出し、令嬢は名を名乗った。
(ニンフレイ───王女だと?)
 ハザは驚愕を隠せない表情で、ニンフレイとセヴェリエの双方を見ていた。
三年