サラフィナスはハザの方を見ることなく、部屋の出口へ歩き出した。痩せ細った背が、疲れを訴えていた。
 難民となり山賊として活動していたハザは、戦乱後の、人間同士の悲惨な姿を数多く目にしていた。その中では弱い者の命ほどたやすく消え、生き残るためには陵辱にさえ耐えることを強いられた。かつて宗教に、あるいは家柄に守られてきた貞節は滅び、汚れても残った命を有難がる───人々の意識はある意味で強靭になったが、別の意味では最低限の秩序をも崩してしまいかねない傾向に拍車をかけていた。 それに耐える事の出来ない人間は当然狂う。そして荒れていく世間から脱落していく。すなわち死であった。
 ハザはセヴェリエの寝台に近付いた。あちこちが破れ、吐瀉物と糞尿の汚れが目立つ毛布の上に、惨たらしく縄で縛られ、セヴェリエは眠っていた。その頬に、涙の跡が残っている。
この男が、俺の希望なのか。
ハザは自問した。そしてエンデニールの姿を思い浮かべた。
この国の崩壊を止めようとする者の末路。だがわずかなものでも、それが道を切り開くというのなら、ハザは決して捨てない覚悟だった。

 それからさらに三月が過ぎ、気温が上昇し、晴天が続いたある朝、セヴェリエは回復した。骨と皮ばかりに痩せ細り、蝋のような血色だったが、瞳に生気が宿っていた。ただ、その瞳の色は以前と違い深い緑色に変わっていたが───ともあれその日からセヴェリエの体力は徐々に戻り、自力で寝台を降りられるようになると、サラフィナスから魔法についての教習を受けることになった。 正気を取り戻したものの、セヴェリエは今度は過去に受けたつらい経験を思い出して、精神的苦痛に苛まれた。それをサラフィナスが辛抱強く治療し、丹念な対話によって、やがてセヴェリエから大きな信頼を得た結果であった。 この時ばかりは、ハザはサラフィナスを見直した。精神不安定のセヴェリエが語る過去の体験や夢の話はまだ良かったが、度々繰り返す自虐的で自暴自棄な発言には、常人のハザは耐えることができなかった。その上同じ言葉を何度も繰り返したり、一時間前にした話を二度聞かされるということもしばしばあった。脳の働きがまだ完全ではなく、時間の感覚が戻らないのだとサラフィナスが説明したが、とうとう最後にはサラフィナス一人に看病を任せてしまっていた。
 そしてさらに月日は流れ、秋が深まる頃。サラフィナスとセヴェリエの二人は海市館を出て、樹海の中で実際に魔法の実施訓練を始めた。弊害を避けるため、ハザ達の立ち入りは許されなかったが、その後も順調に訓練は続行され、冬が過ぎ、春を迎え、再び春が巡ってくる頃になると、サラフィナスはハザに切り出した。
『セヴェリエが降霊術を体得したようだ。今なら、試してみても良いだろう』
『本当か───』
 ハザは心から歓喜した。あの悪夢のような日から、エンデニールの寝室は開かずの間と化し、誰であろうと踏み入ることが出来なくなっていた。精霊の力は想像以上に強力で、意思を持った根や枝葉が、ハザ達を一日中監視しているようだった。エンデニールの寝室ばかりか、大破した書斎にも柳が入り込み、またエンデニールが愛用していたレイピアなどの所持品にも、護衛のように柳が絡みついていた。いずれは自分達を館から追い出すのではないか───そんな危険すら感じられた。それがいよいよ解除されると聞くと、なかば信じられなかったが、もう二年近く姿を見ることが出来なかったエンデニールの様子を、ハザは一刻も早く知りたかった。その命と体を、この一年でどれほど柳に侵食されているのか、それを思うとハザは胸が締め付けられるようだった。
 そしてその月の満月の晩、降霊術が行われた。海市館の庭にハザ、ブレイム、サラフィナス、そしてセヴェリエが集まり、降霊術の為の陣と石版が登場した。
『昨日徹夜して彫ったものだ。これを陣の中で詠唱し、精霊ウィンダリエを召還する』
 松明を片手に、サラフィナスは興奮を隠せない様子でハザに説明した。既に陣の中心に立っているセヴェリエはずっと無言だった。横顔が緊張を訴えている。やがて月が中空に達すると、セヴェリエは石版の詠唱を始めた。はじめは小さな声だったが、次第に強く大きくなっていく。眩しいほどの月明りの下で、セヴェリエの周囲だけがひときわ輝き出した。空気が揺れ、樹海の奥から風が集まってくる。 サラフィナスが目を輝かせて叫んだ。
『───来るぞ!』
 ごお、と突風が足元をすくい、ハザは身を庇った。セヴェリエの詠唱と似たような、別の声がどこからか鳴り響いてきて、合唱のようになった。まるで地震が起きたかのように周囲の柳森がさわさわと一斉に葉を揺する。密集した木立の間から、青い光が帯のように空中を飛んできた。
『あっ───』
 光の帯がセヴェリエの足元にぶつかってきて破裂した。セヴェリエは思わず叫び、詠唱が中断された。しかし呼応していた詠唱は止まず、光の帯はその数を増やしながら、流れ星のようにセヴェリエの上に降り注いだ。セヴェリエは驚き、怯えて光を避けるように陣の外へ出た。そこへ、いちだんと巨大な青い光が雷のように落ちてきた。光はセヴェリエの体を包みこむと、一瞬で消え、その後にセヴェリエの姿はなかった。
『セヴェリエ!』
 ハザは叫んだ。
『あれを見ろ』
 サラフィナスが海市館を指差した。館全体が、青白い光に包まれている。セヴェリエの詠唱が聞こえてきた。
『館の中に───?』
『連れ去られたのだ』
『ブレイム!』ハザはブレイムを呼び、海市館に向かって駆け出した。しかしそれをサラフィナスが引き止める。
『私に任せておけ』
 そう言うや、サラフィナスは先程の石版を拾い上げ、陣の中へ赴いた。柳森からふたたび光の帯が現われ、今度はサラフィナスに向かってくる。サラフィナスは意を決すると、石版の文字の詠唱をはじめた。同じ文句を何度も繰り返すうちに、サラフィナスの眼が陶酔し、深い瞑想状態になる。青い光がその全身を包み、サラフィナスの姿が見えなくなった。光はやがて巨大な炎の形へと変わった。
『こいつも魔法が使えるようになったのか?』
 ハザの隣で、ブレイムが眩しそうに顔をしかめて言った。ハザはそれに答えることが出来ず、サラフィナスの様子を見守った。サラフィナスとセヴェリエの詠唱は途絶えることなく、また呼応する声も途絶えなかったが、それらの共鳴が次第に不快音に変わっていく。ひどい耳鳴りがして、ハザは両手で耳を塞いだ。が、耳を塞いでも、共鳴は頭の中で鳴り続ける。同じように耳を塞いでいたブレイムが両膝をつき、地面に倒れこんだ。ハザは歯を食い縛って堪えようとしたが、音はますます大きくなっていく。不覚に陥る寸前、視界に映ったのはサラフィナスの蒼白な顔と、強大な一筋の光が天空に昇っていく様子だった。サラフィナスの声がハザに向かって何かを告げたが、何かはわからぬまま、ハザの意識は途切れた。

 
三年