『───噂でしょう。私のような者がニンフレイ様のご寵愛を受けるなど』

 それを聞いたミネルバは笑った。声を抑え、吹き出すのを堪える仕草まで見せた。セヴェリエはその様子を不可思議に思った。肩が揺れるほど笑っている。笑っていないのはセヴェリエとグインリゼルだけだった。ひとしきり笑い、ようやく落ち着いたミネルバは詫びた。

『あら……ごめんなさい。いいえ、私が言っているのは──そう…ねえセヴェリエ様。少なくとも私達にはそんなうそは通用しませんのよ。あの夜のことはみんな、すみずみまで覚えているのは私達三人とも同じなんですもの!』
『あの夜…?』
『とぼけてらっしゃるのね。いいわ、それなら教えてあげる。──私とグインリゼルは子供の頃からこの塔の中に暮らしてきたけれど、妹のニンフレイだけが外の世界で育てられたの。同時に生まれながら、私達はこの体のために外へ出られなかった。歩きまわれる自由、両親の愛情、全てが不足していた……求めても必ず十分に与えられるという事はありませんでした。
 だから抑えようと思っても、求める気持ちは次第に大きくなって───ついには、私達はニンフレイと夢を共有するようになりましたの。ですからニンフレイが体験したことはすべて、私達も体験しているのですわ。そのようにして、実際に葬儀には出られなかったけれど──夢の中で父とお別れできました。そして、あなたと出会ったのも……』

 ミネルバの瞳が大きく見開かれる。そして何かを思い返すように宙を巡った。陶酔が頬を染める。

『あなたは夜中、裸で褥のなかに忍び込んできた』
『?!───』
『そして私達の夜着を脱がせ、肌に口吻をしてくださったわ……』
『お待ち下さい。それは──夢のお話でしょう』

 セヴェリエは動転して、ミネルバの言葉を制止した。あらかじめ人払いをしていたお陰で、侍女に聞かれる心配はなかったが、それにしても憚られる内容だった。ミネルバはセヴェリエが慌てる様子を心底面白がっているらしい。

『真実を話して何がいけないの。あなたが抱いた身体はニンフレイですわ。でも記憶は、私達も同じですわ。私達の見る夢は、現実に起こったことも見ますのよ。ことにセヴェリエ様───あなたと過ごした夜はよほど、ニンフレイにとって忘れ難いものだったようですわよ。毎晩のようにあなたと夢で戯れているんですもの。私の言っていることがこれでも信じられませんか?ならばこの後ニンフレイに確かめてごらんなさい。きっと正直に話すでしょう、どんなにあなたに恋焦がれているかを』

 セヴェリエは取り乱した。ミネルバが話していることに、一片も覚えがなかった。からかわれているのだろうか?
 ニンフレイからそんな話をされたことはない。ニンフレイが自分勝手に妄想した夢を、さも現実にあったかのように語っているのなら、気が狂っているとしか言いようがなかった。
 次第に冷静を取り戻したものの、相変わらずからかうような眼差しを向けているミネルバに辟易した。

『……姉上。セヴェリエ様が困ってらっしゃるわ』

 すると無口なはずのグインリゼルが堪り兼ねたように言った。普段の顔と同じく、卑屈さが滲み出る喋り方であった。
姉と同様の美貌だが、同じ顔の作りでもここまでと思うほど、二人の印象は違う。ミネルバは積極的で、会話の主導権を握りたがる傾向だったが、グインリゼルは大人しく控えめで、そんな姉にいつも振り回されていた。そして二人は自分達の身上についての考えも違っていた。ミネルバは奇形の身体を努めて忘れて生きようとしており、グインリゼルは反対に冤罪人のような振る舞いで周囲の同情を引こうとしていた。

『まあ───グインリゼル、そうは言うけどあなただって同じ夢を見たくせに』
 ミネルバはたちまち血相を変えた。

『姉上──』

 グインリゼルの頬が屈辱を受けて染まっていく。ミネルバは身体を揺すり、自分から体を背けようとするグインリゼルを阻んだ。腰から上の二体の上半身が左右に引き攣り、二人の姫の顔が同様に歪んだ。

『セヴェリエ様にまで同情を押し売るつもり?そんなことをしても無駄よ。セヴェリエ様が結婚するのは私達のような身体じゃない──ひとりでひとつの身体のニンフレイだわ。例え同じ顔でも無理。私にはお前がいて、お前には私がいる。ああ───どうして私はこんな姿で生まれたのかしら?もしひとつの身体で生まれてきたら、こんな場所に閉じ込められることもなかった!もしもひとつの身体だったら、それ以上は何も望まないというのに』
 ミネルバは吐き捨てると、グインリゼルを睨んだ。怒りを堪えるように全身が震えている。
『お前さえいなければ』
 そこでセヴェリエは立ち上がり、ミネルバを抑えた。グインリゼルはすっかり打ちひしがれて、涙を流していた。
『ミネルバ様』
 セヴェリエがその肩に触れると、振り返ったミネルバの両目にも涙が浮かんでいた。
『どうしてですの。どうして私達は───こんなに不幸ですの』
 セヴェリエはかの女達の胸の真珠を見た。身につけている衣装は濃紺の絹で、たっぷりとした袖に襞飾りがついている。
 テーブルの上のわずかに手をつけただけの料理は三人分としては到底多すぎる量だった。
『王女様がたは、これ以上ないほど恵まれていらっしゃいますよ』
 セヴェリエは言った。同じ身の上で、生まれた場所が王族と民草では、状況がまるで違う。かの女達がもしも王族に生まれなかったら、例え今のような時代でなくとも生き残れないのが現実だった。五体満足でなければまず人として扱われない。奇形児は特に、聖オリビエ教下では吉凶の象徴であった。王族に生まれても、聖オリビエ教の力が大きいヌールやドリゴンであれば、やはり抹殺されていただろう。

『でも───』
 ミネルバはうつむき、言った。
『それでも満たされない、この心はどうしたらいいんですの。王族の豊かな暮らしでも、私の心は空虚のままです。いくら夢を共有しても───現実の幸せは手に入らない。私達姉妹はこの体のために、わずかな幸せも分けなければならず、その上痛みと苦しみは二重に味わって生きているのです。こうして憎み合っても離れる事はできない辛さが、わかりますか?おかげで妹は心を閉ざしてしまったのです。可哀想な私の妹───私のような姉と同体でいるせいで。そして私も同じく不幸ですわ。傷ついた妹のために身を離してやることができないんですもの。隠れて他人に苦しみを打ち明けることもできない。悩みの原因と身を離す事ができない以上、憎悪は限りなく増えていく一方なのですわ。私は妹を愛している。妹も同じです。けれどこの体は私達の絆を腐敗させるのです。この体が、私達をおかしくさせるのですわ…
 セヴェリエ様。あなたの魔法で、私達の身体を分かつことはできませんか?
 あなたのお力なら、叶いませんか?私はずっと、生まれたときからずっと、そのことを夢見てきました。……いつか、いつか、私も、ひとつの身体を持って、ひとりのかたの腕に───抱かれたい』
 己の身を抱きながら、ミネルバは訴えた。その背後では、グインリゼルが嗚咽をあげている。
 騒ぎを聞きつけた侍女が近付いてくるまで、セヴェリエはなす術もなく佇んでいた。
強国の聖なる水