『本当に具合が悪いようですわね』
 残念そうに、セヴェリエの手を握っていた手が離れる。セヴェリエは虚ろな目を王女に向けた。
『ニンフレイ様』
 出てきた声は重苦しく、水中に響いているかのようだった。
『私はこの城を去ります』
『───何ですって……』
 ニンフレイは驚いた。顔が青ざめている。
『なぜですの』
『私は…この城にはそぐわぬ人間です。お力添いになることは続けますが、もう、城には暮らしません』
『………おっしゃる意味がよくわかりませんわ。あなたは私にとって…いいえ、この城にとっての恩人ですのに。そんなことをおっしゃらずに、どうかこの先もずっと、私の傍にいてくださいませ──確かに、家来の中にはあなたを訝しむ者もおりますわ。
 でも気になさることはありません。私と母と、それに姉達も、あなたを信頼し必要としているのですから。いずれ時が経てば城内すべての者があなたを認めるはずですわ。きっと──いいえ、必ずそうしてみせますわ、私が。だから…』
 ニンフレイは身を乗り出し、真摯な顔で言った。セヴェリエはその顔から目を逸らし、首を振った。すると空気が動き、震動がぶつかってきた。花の香りと、首に巻きついてくる腕の重み。そして胸のふくらみが身体の前で潰れた。ニンフレイの顎が上向いて、セヴェリエの耳に口早で囁く。
『あなたを愛してますの。───だから行かないで。ここにいて』
 セヴェリエは全身が震えた。視界が歪み、感情がうねる。
 無気力に下げていた両手を持ち上げ、そっとニンフレイの肩に触れると、引き離した。今にも泣き出しそうな顔が正面に現われる。赤い唇がわなないて、私は孤独でした、と訴えた。
『長い間王家のためにこの身を捧げてきましたわ。でも、嫌でたまらなかった。嫌で嫌で──こんなやりかたでは、存続どころか家名を貶めていくだけにすぎませんもの。───あなたはご存知なのでしょう?父亡き後、私達がどんな道を辿ってきたか…でも……そうしなければ、私達は生きていけませんでした。
生きていくために、家来に貢がせ、貢がせる引き換えに主人である私が身体を捧げなければならなかった。それがどんなに屈辱だったことか…早くこの地獄から抜け出したい、誰かに助けて欲しい──ずっと願い続けてきましたわ。でも、誰も私の心を理解しようとしなかった…私ひとりをふしだらな乞食にして、味方する者などいなかった。
でもあなたは違いましたわ。──あなたは私を孤独から解放し、真の姿に戻してくださる方ですわ。あなたに愛されて、気付きましたの。私は』
『私はあなたを愛していない』
 ニンフレイの肩に置いた手に力を込めて押し、そのまま離した。後ずさる。
 王女の顔を見ていることができなかった。
『愛していないのです』
 念を込めるように、セヴェリエは繰り返した。遠ざかっていくのをニンフレイの声が追う。
『嘘』
 セヴェリエは無言で肯定した。王女は立っていたが、今にも崩れ落ちそうに揺らいでいた。頬に涙が伝っている。
『でもあなたは私を抱いてくださったわ。何度も何度も、愛の言葉を囁いてくださった。何故ですの?初めから嘘をついていらしたの?何故、そんなことを、どうして今───あなただけが私の支えでしたのに。ひどい……ひどい…』
 その後の声はもう聞かなかった。背を向けると、ニンフレイが名を呼んだが、立ち止まらなかった。
 これで自分を見放してくれれば───そう願った。ニンフレイの事を愛していたわけではない。けれども、かの女が受けた心の傷を思うと、苦しかった。まるで自分の方が裏切られたような気持ちになった。
 しかしこのまま放置して迎える暗黒の未来よりはずっとましなはず───セヴェリエは深い罪悪感の中、浮かびあがった冷酷な自分を嫌悪した。

 セヴェリエが海市館に戻ると聞いて、大姫ハイデリンドは驚いた。
理由を話すと、引きとめてきた。噂など気にせず、妾達を信頼して留まるように───ニンフレイと言うことはほどんど同じだったが、助力は変わらず続けていくと告げると、納得した。
 家臣が戻った事で政治に意欲的になっていた大姫は、魔物の危険を忘れかけていたせいもあり、セヴェリエに対する認識を変えつつあった。娘のニンフレイとセヴェリエの噂も耳に入っていた。
 大姫自身はこの美しい若者を気に入っていたが、現実に一族に迎え入れるかとなれば別の話だった。城騎士のように愛人で収まれば問題はなかったが、どうもそうではないらしいとの様子をニンフレイの侍女から聞いた時は、ナザイアの衣を与えたことを後悔した。
 最初は確かに、セヴェリエを王の衣に見合う者として認め、あわよくば相応の地位を渡しても良いと大姫は思っていた。
 しかし時間が経つにつれ、セヴェリエの浮世離れした部分が目に付いてきた。年齢の割に礼儀も常識も知らず、動じない性格というよりは全てにおいて無関心な様子、それでいて知識は豊富に持ち合わせているのだが、例えば作物がどのように育つかは熟知していても、その作物が領地の穀倉に入ってどれくらいの期間・どれだけの人間に分配できるか、労役によってどう差別するかなどに考えを巡らせるということはしたがらない。
 そういう人間が先王のマントを着ているのである。戻ってきた家臣は不審がって当然だった。
 双方に余計な波風を立てずに治めなければと思いながらも、わざわざ心を砕く事を面倒に思っていた──そんな矢先にセヴェリエからのこの申し出は、正直願ってもないことだった。
 それに──ニンフレイは落胆するだろうが、ニンフレイから想い人を引き離すことはオエセル家にとって現実必要であった。

 戻ってきた家臣のひとりから、大姫はある情報を知らされていたのだ。
───滅びた北のヌールの地に、新たな国が生まれようとしている。
 その主導はかつての東の地、ドリゴンの軍人ジアコルドであり、既に巨大な要塞が完成している上、アルヴァロン中からぞくぞくと民が集まっているのだという。要塞が出来る前は、建造のための人材調達に誘拐まがいのことをして血生臭い噂が絶えなかったが、今では人々が積極的に北の地を目指しており、安住を求めての活気がすさまじいとの話だった。
 大姫の知る限り、アルヴァロンの現況といえば、西のシャンドランは国境間で隣国と戦争中、東のドリゴンは侵略者に占領されて以降内情は閉鎖されていた。王国は分裂している。──もしも、再びそれを統一しようとするなら。
 その可能性は、オエセルと北の地にある。ジアコルドはアルヴァロンを復興させようとしているのか、それともまったく独立した国を作ろうとしているのか定かではなかったが、いずれにしても、オエセルがジアコルドの興国に協力しようとする姿勢には寛大なはずだ。オエセルの内情は決して芳しいものではないが、この現状が悪化する前にジアコルドと友好関係──友好よりもっと堅実な関係を結んでおけば、起死回生、オエセルの強国に繋がる。
 そのための策は、既にとっていた。
 立国の祝い品を持たせた使者を北の地へ送り、ジアコルドに謁見して、打診する。
ジアコルドと、オエセル王女ニンフレイを政略結婚させようというのである。ジアコルドが了承すれば、ニンフレイを北の地へ送る予定だった。
強国の聖なる水