『言っている意味がわからない。──では、魔物は?まさかあれを生み出しているのも』
 背を向けたセヴェリエの肩から深緑の衣が滑り落とされ、素肌が現われる。ゆっくりと首だけが動きブレイムを見た。
『ミグダ。お前はそこで見届けるがいい。愚かな人が作り上げた善と悪がこの世を破滅させるさまを。
こやつはその案内役だ──こやつの行く先は争いが増え続け、流血と死が付き纏うだろう。こやつの心は己の殺した善に苦しめられながら、悪がもたらす快楽に喘ぐだろう』
 セヴェリエの口が、セヴェリエの声でそう言うのを、ブレイムはじっと見ていた。セヴェリエは全裸になっていたが、無防備な印象はない。どれどころか、目を合わせているだけで圧迫を感じた。空気が重い。か細くなる息の下、ブレイムの視界がわずかに霞んだ。
『世界を滅ぼす気なのか。おまえは』
 身体の力が抜け、膝が落ちる。その様子を冷酷な目で見下ろしている相手に訴えた。
『憐れなエーン・ソルフの摂政よ───恨むなら、神に毒されたお前の主を恨むがいい』
瞬く間に、堅い床に頬骨をぶつけていた。視界からセヴェリエの姿が消えていく。足元から煙のように消えていく。
世界は変わった───
 アルスの声がそんなことを呟くのが聞こえた。
───Ars
 ブレイムはもう一度その名を呼んだ。しかしそれが言葉になることはなかった。

 そして出発の日が来た。
オエセルの城下は城から王都の門にいたる道に生花が敷き詰められ、立ち並んだ人々からニンフレイ王女の輿入れが見送られた。花嫁は正装した城騎士に護衛され、アルドランへの贈り物や財宝を積んだ馬車や付添い人の列がその後にぞろぞろと続いた。金装飾の馬具をつけた馬が花を散らして歩く様子は壮麗で、行列の中心にいる王女の美しさはまるで女神が舞い降りたかのように輝かんばかりだった。けれども行列が通り過ぎた後には廃れた街並と萎れた花の残骸が寂寥を誘い、王族と民衆の現実の格差を物語っているようだった。
 王女の傍らにはセヴェリエの姿があった。深緑のマントを着て、鞍に跨っていた。顔はフードを被り、隠れている。
 着飾った従者達に紛れて目立たないその姿を、通りの陰からハザが一心に見ていた。その眼は浮かれる民衆の中でただひとつ恨みがましい炎を灯していた。

(本当に戻ってくるのか?)

 フードの下の表情を知りたいと思った
 ニンフレイに随行すると聞いた夜から、二人は会話していない。セヴェリエがオエセルの世話人になってから、ハザは自分からセヴェリエに距離を置いていた。あの王のマントを身につけだしてからだった。その以前から、セヴェリエには浮世離れしたつかみ所のない部分があったが、どちらかといえばそれは素朴な印象だった。ところが今はそれが、ただ流れに身を任せた無気力に映っている。
 こんなことになる前のセヴェリエは、エンデニールのことが何よりも重大だった。しかしオエセルの王女が現われて、セヴェリエはあっさり城へ付いて行きそのまま王城に住み着いた。確かにそこまでの流れには、どうしても逆らえない事情があった。ハザ自身もその要因のひとつだと自覚していた。だから、セヴェリエの選択に余計な口出しはしなかった。しかし今、ハザはそのことを深く後悔している。
 王宮の暮らしがセヴェリエを変えてしまった。海市館でエンデニールを蘇らせることに対する困難と途方もない時間の浪費を気付かせ、貧しい食糧の辛さを気付かせ、新しく生きる道を示した。
 ハザはセヴェリエの真意が知りたかった。
 現状は、セヴェリエに選択を迫っているのだ。ハザはそれを感じ取っている。焦っている。しかし当の本人は───
 ハザはセヴェリエ自身の意志に任せたいと望んでいる。オエセルの城で暮らしたいならそれでもいいと思っていたが、その前に自分の希望をセヴェリエに話し、その反応を知りたかった。

 ハザの足は自然と行列の後を追っていた。見送りは開放された王都の門の外まで続いていた。行列の最後尾を見送って王都へ戻る人波に逆らい、ハザは列を追い続けた。舗道の外を歩き、樹木の影に身を隠しながらいつまでも追った。最後は丘の上から遠ざかる行列を見送った。
 眼を凝らしたが、緑の衣はもう先の方へ消えていて見つけられなかった。
 体から力が抜けた気がして、ハザは空を仰いだ。鬱々とした色の樹海の上は澄み渡っていた。森の彼方、東の方角を眺めると薄く膜が張ったように霞んでいる。目を細めてその遠くへ思いを馳せた。
 北は新しい国が息吹いている。東はどうなっている?───
 遠く離れた仲間の顔が久し振りに脳裏に浮かんだ。彼らが東を目指して3年。それからどうなっているのか、便りはいまだに届いていない。待ち続けている間、苔穴の老人達の死に幾度となく立ち会った。故郷へ戻れぬ彼らの無念をハザはただ己の胸に刻みつけてきた。仲間を心から信じているからこそ、待つ事は耐えられる。生きているのか、それが気がかりだった。仲間の誰かが戻ってきて、今の自分を見たら何を思うだろう。
 その時、遥か上空で甲高い声が木霊した。黒い鳥が大きな翼を広げ風に乗って下降していく。
 悠然としたその姿は鷹だろうか、それとも───
 ハザは鳥の行方を目で追う。樹海の上で旋回した鳥は大きく羽ばたき、高く飛んだかと思うと急速に樹海の中に姿を消した。風が吹いた。その後、聞き覚えのある笛の音に気が付いた。
 頬が緊張し、周囲を見回す。笛の音は小さく遠く、眼下の森から聞こえていた。やがて音がやむと、先程と同じ鳥が再び森の中から飛び立っていった。そしてまっすぐに北へ向かっていく。
 ハザは行列が消えて久しい舗道を睨んだ。木立の奥に銀緑色のマントが現われたように見えたのは、幻かとも思えるほど距離が離れていたが、まざまざとした予感がハザの胸中で確信に変わった。

(レムディン───何をする気だ)

 ハザは駆け足で丘を下りた。森の舗道に立つと、オエセルを背に向けて、走り出した。
強国の聖なる水