その後、セヴェリエは城の中庭を彷徨うように歩いていた。花々も緑輝く樹木も、心を動かすことはなかった。そもそも心自体が不確かなものになっていた。深緑の衣を見て、歩廊から家来が声をかけてきたが、ろくに耳に入らなかった。 
庭の遠くにある木立に侍女と連れ立っているニンフレイの姿が見えたが、それも無視した。逃げるように足早に自室に入り、扉に鍵をかけるとそのままへたり込んだ。
 頭を下げ、深い息を吐く。しかし落ち着くどころか、鼓動が速くなり、息苦しくなってきた。脳内を巡っているのは、言葉では掬いきれない感情と思考ばかりだった。目を閉じ、混乱を鎮めようと試みた。
 ひと繋ぎの王女の言葉が、かの女達の顔と共に蘇ってくる。
 ニンフレイを、抱いたのか────私が。
 しかし、記憶はない。想像したことさえないことだった。
 セヴェリエにとって女という存在は、東の荒野で自分を辱めた娼婦たちの印象そのもので、いまだに倦厭したいものだった。 娼婦と王女のニンフレイを同等に見るつもりはなかったが、そうは思ってもニンフレイの性格にはしばしば度が過ぎるところがあった。樹海の魔物について真剣に話をしている最中でも話題を変えたがり、気に入らない意見には子供のように拗ね、愚図り、何も言わなければ甘えてくる。困り果てれば遊びや<お茶>に付き合わせようとする。
 夢でまで顔を合わせたくない──それが正直な気持ちだった。
 本当に夢なら、あるいは相手が自分でなければ、ミネルバの妄想として片付けて終わるのかもしれない。
 自分には記憶がない。
 それは全て、王女様の見た夢です。現実には起こり得ないまったくの夢です。──確信を持って言える。しかし。
 セヴェリエには躊躇があった。自分の中には【セヴェリエ】が【セヴェリエ】だと思っている人格とは別のものがひそんでいる。───その正体は【アルス】という。海市館でセヴェリエを異世界に引きずり込み、自分と融合しようと持ちかけてきた精霊の王。邪悪で禍々しき、悪魔。勿論承諾などしていない。けれどもその後から今に至るまで、アルスの存在は何かとセヴェリエを悩ませてきた。
 それは例えば声がしたり、姿を現すということはなく、予測不可能な瞬間に記憶が飛んで、気が付くと血塗れで森の中に佇んでいたりという現象で思い知っていったのであったが、こんな形で知らされるのは初めてのことだった。
 今までどんな時に記憶が飛んでいたか、セヴェリエは思い返してみた。
 聖なる森で狩人を救った時、既に食い殺されていた人間を見て、咄嗟に口から飛び出したのは自分でも覚えのない精霊語だった。うろたえたが、愚かにもそのまま身を任せてしまったのだ。眩しいほどの光が炸裂して、魔物は消し飛んだ。と同時に、その後の自分の記憶も寸断された。気が付くと、柳森の中に居た。ローブはあらかた返り血を浴びて変色していた。
 海市館に帰って記憶を頼りに光の魔法についての精霊語を調べた。手当たり次第に調べたが、該当するものはとうとう見つからなかった。光の魔法自体が、存在しないようだった。
 しかしそれから数日して、偶然それと確信できるものが見つかった。エーン・ソルフの王の日記に記されていた、退魔の魔法であった。しかし書物は海市館の書物にしては例外的に損傷がひどく、呪文も断片的にしか読み取れないようになっていた。欠けた部分を修復しようとしても、エーン・ソルフの文字は現代のアルヴァロンの言語ともエルフ語とも違う、原始的な象形文字のため、おそろしく時間のかかる作業であった。セヴェリエは途中までは何とか読解できたが、自分の力で扱うまでには至る事ができなかった。
 それよりも自分を覆っている【アルス】という脅威に絶望してしまったのである。

 あの時。夢か現かわからぬ狭間で。
 アルスはセヴェリエの身体を陵辱しながら語っていた。
 アルヴァロン王家の崩壊は、自分が仕掛けたアルヴァロンの民への報復であると。魔法使いの弟子を使って戦争をしかけ、不治の伝染病を撒き散らしたと告白した。それを信じるとしたら、自分はそれだけの力を今得ているということになる。そして融合したのが確かならば、いずれこの身体は完全にアルスの意志のものとなる。一国を破滅させた力を御することなど自分には不可能だと、セヴェリエは絶望していた。
(サラフィナス。先生───)
 セヴェリエはその名を随分長い間思い出さなかった。過去、アルスのことを唯一話した相手がサラフィナスだった。
 アルスが自分の身体に乗り移っているのなら、なぜいっそ自分を殺して全てをもぎ取ってしまわないのか、セヴェリエが訴えるとこう答えた。

「アルスの力の構造は、求めるものの意志が関係しているのだろう。力が欲しいと願えば求められるがままに与えてきた。そうして存在を豊かにしていった。そう言っていたな?
 だからこそエーン・ソルフの民が聖オリビエ教に改宗されアルスを忘れると、やがて力は衰えていった。何かを求める意志───つまり根本は欲だ。欲こそがアルスにとって信仰なのだ。そして欲の規模がアルスの力の規模に比例する。だからその欲を抑制すれば、アルスは力を発揮できない。そのまま忘れ去られ、やがて消滅するのだろう。お前にアルスがとりついていながら力を発揮できないのはおそらく」
「私が、修道士だったから──それでアルスは全てを意のままにできない、ということですか」
「その上、若く清らかすぎたのだろう。欲望を知って抑制しているわけではなく、もとから欲望を知らなかった。──そういう者は余計な力を欲しないものだ。だが、この先はわからぬ」
 サラフィナスは心底気の毒そうにセヴェリエを見た。

「お前が過去に受けてきた傷」

 その一言はあまりに残酷に、セヴェリエの胸に突き刺された。強姦。陵辱。知りたくなかった感情。痛み。
「それこそがアルスをひきつけた元凶だろうな。無論、エーン・ソルフの末裔であることも魅力だっただろうが。しかしお前が味わってきた不遇の事故としかいいようのない体験は、お前の心に胤を落とした。アルスにとってより接近しやすい、すなわち、力を欲する【理由】だ。──そんなもの、自分は望んでいない。そういう顔をしているな。だが、アルスは現われたのだ。
 お前の意識せぬ、お前の心の底に求められて。
 似たような話は聖オリビエの教典にも載っていたと思うが…魔法の研究者が道を踏み外す逸話としても百は語られていることだ。【悪魔】と呼ばれるもの達が、どんな手練手管で人間を陥れてきたか……自業自得な場合もあるが、お前のように不運が重なってつけ込まれる話もまた多いのだ。
 悪魔の目的───多くの悪魔が望んでいるのは人間の【堕落】だ。そのために、とりついた人間を自ら死に向かわせようと仕向ける。死を望んだ人間から悪魔が手に入れるのは、その肉体と魂だ。そのために、起こり得ないような不幸や事故を巻き起こしたりする。自分さえ死ねば全てうまくいく──そんな幻想さえ見せることもある。 
死への欲求は堕落に反抗しているようで実は違う。それが若い死ならばこれ以上奴を喜ばせることはないだろう。
その時こそ、お前がアルスに肉体と魂を完全に乗っ取られる」
強国の聖なる水