セヴェリエの手が無意識に、身につけた深緑の襞に触れる。この触感とはもはや離れ難いものになっていた。
『確かにそうですが…でも私は海市館の留守を守らねば』
 しかしその言い訳を大姫は既に予測していたらしい。
『樹海の護衛を増やしますわ。でも、柳森には結界があるのでしょう?──それとも…それほどまでに海市館に残ってしなければならないことでもあるのかしら』
 セヴェリエは沈黙した。大姫の言葉は無心なものだったが、用心を感じた。過敏になっては逆に怪しまれる。
 エンデニールはまだ昏睡している。蘇らせなくてはならない。だが、未だに打つ手が見つからない。これというものも、実践するには危険が伴うものばかりで、躊躇し時間ばかりが過ぎていた。
 事情を話すべきだろうか?一瞬過ぎったが、制止した。
 大姫がさらに質問を重ねる。
『そうでなければ、どうして?アルドランの地に行きたくない理由は?かの地に何かあるとでも?』
『…………』
 思いがけず核心を付いた言葉が大姫から発せられ、セヴェリエは瞠目した。アルドラン。しかしその地はかつてヌールと呼ばれていた。厳しい自然の中に建つ修道院が記憶に浮かび上がった。湧き上がるのは、懐かしさよりやるせなさだった。
 あれほど戻りたいと願っていた場所は、違う名前になっている。それ以前に、戻る資格を自分が失っている。
 もはやあきらめて、夢にさえ思わなくなった。
 今更───心中で呟いて気が付いた。自分は戻りたいのか。しかし、戻りたくない、という感情は起きなかった。

(なぜ)

 問う。戻りたくないと、思わないのは何故だ。考えながら胸元に手を伸ばしていた。空虚を握り締める。そうだ。
 確かめたいのだ。
 あの時、アルスに見せられた幻影──燃えさかる修道院の光景が、真実なのかどうか。もしかすると、すべてが嘘かもしれない。長老は──三年の間にもしかしたら死んでいるかもしれない。けれどそうでなくても修道院の誰かは生きているかもしれない。急激に生まれた希望の欠片に、セヴェリエの心はかつてない明るさを取り戻した。

 ニンフレイのアルドラン行きは、三日後に出発が決定した。
 海市館に戻ったセヴェリエは、早速事情をハザに話した。夜が更けると、ブレイムもやって来た。
 ハザは話を聞いてからというもの、苦渋の面持ちでずっと口を引き結んでいる。長椅子に腰かけて両腕を組んだまま微動だにしない。ブレイムは菩提樹茶をねだり、蜂蜜をたっぷり入れて飲み干すと、セヴェリエの同行について感想を述べた。
『──その王のマント、返しちまえばいいのに』
 丸い黒目がちの両目が深緑の衣を見つめる。セヴェリエはつい、庇うように表面を撫でる。これを返すなど──
『それがあるから、オエセルは無茶な頼みをしてくるんだ。返しちまえば済む話じゃないか。なあハザ』
 屈託のない声でハザに意見を求める。ハザは反応を見せようとしない。
 セヴェリエは衣から手を離すと、ハザのかわりに答えた。
『…そんなことをすれば、オエセルから助力を貰えなくなる。ここでオエセルとの関係を絶ってはいけない』
『へえ?』
『オエセルはアルドランと血縁を持って、兵力を強化するつもりだ。そして聖なる森の魔物を討伐すると言っていた。
…この結婚はオエセル王家のためだけではない。苔穴や、海市館、お前達の命を守るためでもある』
『だがエンデニールの事はどうなる』
 腕を組んだまま、低い声でハザが言った。三白眼がこれ以上ないというほど険しくなっている。
『お前がいない間に…何かあったら』
『そうなる前に、戻るつもりだ。ずっと行っていろという命令ではない』
 ハザは鼻を鳴らした。
『城で王女に医者をつけさせるため、だったか?──大した任務だなまったく。せいぜい頑張るんだな』
『ハザ』
 長い足を持ち上げ、ハザは床に下りた。立ち上がり、セヴェリエを見下ろした。顔を見ると、険しさのかわりに悲しげな目があった。何かを言いたげに唇の端が動いたが、開くことはなく、そのままセヴェリエの視界から消えた。
『ハザ…』
『……』
 出て行く背中を見送り、セヴェリエは気が沈んだ。深く息を吐いた。ハザの靴音が遠ざかるのを聞いて、部屋の中へ振り返る。ブレイムの姿を探した瞬間、突然耳に不思議な言葉が響いてきた。
───Fi mosquie doa l le. Endeneel?
(エンデニールはもう助からないのか?)
 空気に溶けるような言葉の主は、ブレイムだった。そして言葉に耳を傾けていたセヴェリエの形相が変化していく。緑の瞳が細められ、表情に残忍な影が浮かび上がる。

Ars, O ekina zona mhyaka doo m.
 問いかけるブレイムの顎にセヴェリエの指先が添えられ、撫でた。爪の先が最後にちくりと肌を刺す。
『地の言葉で話せ』
 顔を近付け、唇の先で告げる。甘い息がブレイムの鼻腔をくすぐった。
『アルスなら、エンデニールを救えるはずだ。なぜそうしない』
 深緑の衣に向かってブレイムは言った。
『セヴェリエを助けてやらないのか。セヴェリエはエンデニールを救おうとしているのに』
 セヴェリエ──アルスに憑依されたセヴェリエは背を向けたまま笑いを漏らした。
『余の体は長く虚弱して性質が変わったようだ。かつてエーン・ソルフから望まれることはすべて善だった……しかしこやつは違う。こやつは長い間善なる願いを聖オリビエとやらに託してきた。ところが神を見失い、自らに善を願う資格がないと思い込んでからは何も望まなくなった。
 今は、こやつがこの世界に思う恨み───それが余を動かしている。こやつが心の奥底に描く絶望を、現実の世界により色濃く確かなものにするために、余の力が誘引されるのだ。その力はあまりに強く、余はすでに余である意識さえうつろいでいる』
強国の聖なる水