セヴェリエが海市館に戻った数日後。北の地からオエセルに使者が戻ってきた。
 婚約の由、承知したとの書状の最後は、アルドラン、とあり、人面獅子の紋章が捺印されていた。
『アルドラン───これがヌールに代わる新たな北の地の名前』
 アルとは新世界を意味する言語で、アルヴァロンの名のもとになっている。<ドラン>はドリゴンに由来するのだろう。
 鏡の広間で書状を手に、感慨に浸っていた大姫はふと思い立ち、傍に控えていた使者に尋ねた。 
『ジアコルドはどんな方でした』
 使者は吟遊詩人風の衣装を纏った騎士だった。実際に楽器を鳴らし、弁舌と歌で見事な演技をすることでジアコルドの関心を惹き、さらに結婚の意志まで引き出したのだった。丸顔で人のよさそうな中年男だったが、大姫に問われた内容には戸惑いを露にした。
『───ご立派な武人でした。まだお若いので、ニンフレイ様もお気兼ねなく接せられるかと。ご気性は激しくはあられますが、短期間で国をおつくりになられるには、多少血気がなければなしえませんし、もともとはドリゴンの将軍だけあって家柄も礼節もしっかりしておられます。ただ…』
 ご病気で、と声をひそめた。
『片目を失っておられます』
『まあ…症状はひどいのですか』
『それが何とも…私が接した限りではお元気そうですが。奇妙なことに、王宮に侍医を置いておられないので』
『どういうことです』
『何でも、医者に諮られて毒を盛られ、片目を失くしたとのことで。以来医者を信用しないのだと』
『それは…お困りでしょうね。王宮の怪我人や病人はどうしているのかしら』
『医者が王宮に立ち入りできないため、城の者は皆城下まで出向くのだとか。ニンフレイ様が輿入れとなればしかし、そうは言ってもいられません。姫のご健康のためもありますが、御子が出来れば医者は必要ですから。
 ジアコルド王はニンフレイ様のために侍女を数人つけると仰せでしたが、城の女は殆どがもと娼婦だという話ですので、繊細な待遇は当てにできません。こちらから同行させたほうが良いでしょう』
『──それにしても医者が毒を…』
『その医者ですが』
 使者は身を屈め、遠慮がちに大姫の傍に寄った。神妙な顔付きに、大姫は身構えた。
『大姫様──以前、我が城に食客として滞在していた隠者を覚えてらっしゃいますか』
『隠者?…名は?』
『サラフィナス』
 大姫には覚えがなかった。首を横に振る。
『その者がジアコルド王に毒を盛り、今も要塞の地下に投獄されているようなのです』
 大姫は使者を見返した。思考を巡らせる。
『確かなのですか』
『同じ名前に過ぎないのかもしれません。しかし南の地で捕らえられて医者として迎えられたと聞いたので、本人に間違いはないかと。───いかが致しましょう』
『………』
 大姫は沈黙した。このことが後々問題になるだろうか。しかし食客など、繁栄していた時期なら大勢いたし、王族に縁がない者でも受け入れていた。知らぬことと捨て置こうか。投獄の理由も聞けば、自業自得だ。助ける理由はない。
『お前はその者と会ったの』
『サラフィナス殿とですか。いいえ──話でだけうかがいました』
『それなら、放っておきましょう。でも医者は何とかしなければならないわね……』
 身の回りを世話する侍女はこちらから送っても構わないだろう。しかし医者を連れて行くことはできない。今の話からすると追い返されるのはましな方で、ひどくすると結婚解消になりかねない。医術の心得を持ちながらそれを匂わせない者でもいればいいのだが───思い当たる節を探していた大姫は、最適な人間を思いついて歓喜した。様子を窺っていた使者に向かい、大姫は言った。
『海市館に使いを。セヴェリエ殿を城に呼びなさい』

 ハイデリンドに呼ばれ久々にオエセル城を訪れたセヴェリエは、謁見の間で告げられた依頼に面食らった。
 医術の知識などないばかりか、よりによってニンフレイの結婚に同行するとは、大姫の正気を疑うばかりだった。
『ニンフレイ様は、ご承知なのですか』
 セヴェリエが問うと、大姫ハイデリンドは紗の向こうで微笑んだ。
『勿論ですわ───ねえ、ニンフレイ』
 謁見の間の大扉が開いて、ニンフレイが入ってきた。咲き乱れる白いユリに囲まれた姿はひときわ美しかったが、その瞳がセヴェリエを映すと、耐え難い感情を堪えて伏せられた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに毅然とした表情になった。セヴェリエの目の前まで進むと立ち止まる。
『ご無沙汰しておりました』
 セヴェリエは身を屈めた。
『本当に。お元気でしたか?』
『はい。この度は、ご結婚おめでとうございます』
『………』
 ニンフレイは何も言わず、玉座の方へ行ってしまった。
『引き受けてくれますわね』
 ハイデリンドが念を押す。
『私は医者ではありませんが───』
『先方に嘘をつくつもりはありませんわ。賢者と説明して、ニンフレイの教育係とでも、いくらでも名目をつけます。あなたに娘を守って頂きたいの──慣れない土地で医者もいないのなら、娘はきっと病気になります。誰かがついていないと、子を授かる事も難しくなるでしょう。そうならないためですわ。
 あなたなら、医者ではなくても、薬草の知識や民間療法をご存知な上、魔法を扱える。ジアコルド王がいくら医者を憎んでいても、さすがに魔法には関心を持つでしょう。追い出しはしないはずです。そうして信頼を得れば、あなたの言葉でジアコルドの心も動いて、医者たちを城に呼び戻すのではなくて?
──何もあなたに生涯北の地に居てくれと言っているわけではありませんのよ。あなたはナザイアの衣を受け取り、私達の力になってくださると仰いました。その言葉をどうか裏切らないで、守って頂きたい。それだけですわ』
強国の聖なる水