「自ら死を選ぶなということですか───では、どうすればいいのですか?アルスに、悪魔に打ち勝つにはどうすれば?私はもう…修道士に戻ることができないのに」

 セヴェリエは虚しく胸元を差した。そこにあったロザリオは森で失くしていた。探すことは気が咎めた。例え見つかっても、汚れた自分を再び信仰に戻って良いと許す存在は既にこの世にいない。
 神を頼ることもかなわぬまま、欲望を殺し続けて死ぬまで生きろというのか───それではあまりにも葛藤を生みすぎる。そこでサラフィナスがセヴェリエに示したのは、エーン・ソルフの末裔としての能力を高め、柳の精霊と同化したエンデニールを救うことだった。エンデニールを蘇らせることができれば、道は開ける。そう教えられ、セヴェリエは魔法の修業に身を入れるため、それからは聖オリビエへの未練を捨てた。 魔法の概念は、セヴェリエにとってそれまで非常識と考えてきたことを覆さねばならぬ行為でもあった。それでもセヴェリエは耐え、受け入れ、やがてエンデニールを解放しようという段階に到達したのだった。が、失敗した。エンデニールは戻らず、サラフィナスはその後の道を示すことのないまま、姿を消してしまったのである。

(欲望が、私の中のアルスを刺激するのだろうか)

 セヴェリエは思った。光の魔法を使った時感じたのは、目前の窮地を救うための強い攻撃──それを欲した。それ以外の場合も思い返せば、初めて魔物を目にした衝撃で目が眩んだのが、最も古い記憶だった。いずれも虚を突く危機で、感覚が追いつかなかった。その後魔物との遭遇を重ね、魔法の実戦も重なっていくと、記憶が飛ぶということはなくなったが、今度は自分の魔法の威力が驚くほどに増してきていることに不安を覚えていた。
 力を求める己の姿が自然になっている。今の自分は、修道士だった頃の自分とまるで違う。自分でも別人のように思える時さえあった。実は既に、アルスに乗っ取られているのではないのか。セヴェリエの脳裏にはいつの間にかその恐怖が付き纏っていたのである。
 そこへ、ニンフレイの一件がふりかかった。
 ニンフレイが普段自分を見ている目。今思えば、人を誘惑しようとしているふしが多々思い当たる。その様子がもしかすると、自分の中のアルスを扇情したのかもしれない。

(自分だけではなく、他人の欲望にまで影響されるのか──いや、私に向けられる欲望───それを叶えるために現れるというのか?)

 ニンフレイがセヴェリエを求める毎に、アルスがセヴェリエの肉体を占領し、行動を起こしているのだとしたら───そこまで思い至り、セヴェリエは戦慄を覚えた。確かめてみる必要がある。ニンフレイに会って、事実かどうか、確かめなければ。

 翌朝、セヴェリエは王女を探したが、城内には見当たらなかった。あきらめて庭園に出ると、中央の池のほとりで花摘みをしているニンフレイを見つけた。近くに東屋があったが傍には誰もおらず、王女一人だった。金色の髪が日光に透け、眩しいほどに輝いている。セヴェリエが近付いていくと、拵えた花冠を掲げて無邪気に笑った。頬が薄く染まり、セヴェリエを見つめ返す瞳が潤んでいる。しかしセヴェリエの顔色が尋常ではないことに気が付くと、途端に深刻な顔になった。
『───どうなさったの』
 花篭を脇に抱え、片手を伸ばして尋ねる。セヴェリエは王女の気遣いに絶望していた。
 思い違いであれ。そう願った。しかし既成事実があろうがなかろうが、この王女が自分を恋しているのは間違いない─今の一瞬でそう確信した。こんな瞳を、過去にも向けられたことがある。
 胸が締め付けられた。
 けれどもセヴェリエには、王女の心に答える気持ちはなかった。まず添い遂げることができない。世間知らずのミネルバの話は極端だ。ニンフレイならば、二人が結婚することは不可能だと承知しているだろう。世話人といっても、セヴェリエとでは身分が違いすぎる。それだけならば、自由に想われて遣り過ごすのだ。それだけならば。だが。
『セヴェリエ様?』
 ニンフレイが心配そうに顔を覗きこんでいた。
『御気分がすぐれないのですか』
『───いいえ………ええ、どうやら……そのようです』
 喉の奥が乾いて声が出せなかった。
『東屋の中へ入りましょう。──いえ、それよりも部屋で休まれたほうがよさそうですわね』
 ニンフレイは篭を置き、セヴェリエに寄り添った。甘い香りが空気を包み込む。人目を忍ぶように連れて行かれたのはニンフレイの寝室だった。明るい日差しの入る室内の、天蓋の下に横になれとすすめられる。
『……眠りたくありません』
『でも、お顔が真っ青ですわ』
 セヴェリエに身体を密着させるようにして、ニンフレイはずっとセヴェリエを見上げていた。
 その手が軽く腕に当たる。深緑の衣の上を滑り、セヴェリエに触れる度合いを次第に強めてくる。セヴェリエはそこではじめて顔を上げた。湖水の瞳と見つめ合った。何も言わないでいると、ニンフレイの濃い睫毛が下りてきて瞳を隠した。
 腕によりかかった体がさらに密着してきて、ニンフレイのもう片方の手がセヴェリエの胸の下に乗った。肩に凭れている金色の髪を見下ろす。接触していることに抵抗感はなかった。部屋には二人だけだった。誰も入ってくる気配はなかった。
『あなたが再びこうして私の閨に来てくださるのを、ずっとお待ちしてましたのよ…』
 目を閉じたまま、ニンフレイは吐息を交えて言った。
『再び…?』
 それを聞いて、セヴェリエは冷や水を浴びたような錯覚を覚えた。予想していたはずなのに、強烈な衝撃だった。動揺を鎮めることもできず、頭の中が空白になる。
 この王女は策略を思いついても、妄想を現実として話すことはしない。やはり事実なのだ。そして今、王女はセヴェリエの手を取っていざなうよう褥に膝を横たえていた。花が香り、みずみずしい肌が目に焼きつく。意識が遠のきそうだった。だが、明らかにしなくてはならなかった。自分の知らないところで、アルスが王女を何度抱いたのか。今の口振りでは、毎晩ということはどうやらなさそうだった。しかし、今後はわからない。王女の執着が深まれば、アルスが自分を占領する頻度が多くなっていくだろう。それは、止めなければならない。しかしどう話すべきなのか。何を言うべきなのか。
強国の聖なる水