嘆きの大姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『オエセル領主第三王女ニンフレイですわ』
 令嬢は名乗ると、湖水のように澄んだ大きな瞳で、セヴェリエの顔を見つめた。無邪気な好奇心に満ちた眼差しは妙に熱を帯び、まるでかの女の纏う香りをいっそう際立たせ、見ている者をとりこにしてしまいそうだった。
 年齢は17、8という頃だろうか。やわらかそうな肌と金色の髪は一点の穢れもなく、事々にオエセルの現実において異質の存在に映った。
 気がつけばハザは王女にすっかり見とれてしまっていた。しかし隣のセヴェリエはというと、不思議そうな、茫洋とした表情で、彼の前に差し出されたニンフレイの手を見ているだけだった。セヴェリエの境遇を思えば、身分の高い者同士の礼儀を知っている由はない。慌ててハザが声をかけようとしたが、その前にニンフレイの手が退いた。  
 気まずさを取り繕う微笑さえ、優雅であった。
『はじめてお目にかかりますわね?ぜひ、御名前をお聞かせ願いたいですわ』
 五月に聴く鳥のさえずりのような、心地よい声で訊ねられ、セヴェリエはようやく反応した。
『セヴェリエ────こちらは、ハザです』
 セヴェリエが答えると、ニンフレイは初めてハザの方へ視線を向けた。長い睫毛が静かに瞬いて、ふたたびセヴェリエの方へ向けられる。しかしそこで、背後に控えていた騎士が近付いてきて、ニンフレイに何やら耳打ちをした。ニンフレイの目が、もう一度、確認するようにハザを見る。特に意図はないかのようなわざとらしい振る舞いがそこにあった。美しい王女に惑わされている間に自分を取り囲んでいた殺気を、ハザはようやく知る。
『かような場所に、何の御用でしょう』
 緊張した空気を知ってか知らずか、今度はセヴェリエから質問が投げかけられた。
 するとニンフレイは顔をほころばせ、顔を傾げた。瞳がセヴェリエの背後に拡がる柳森を映す。
『ここはオエセルの領内ですわ。領主が用もなく訪れて、何がいけませんの?』
『柳森はリンク家のものです』
『そのリンク家は、我が王家の眷属ですわ』
『しかしエンデニール殿の代で断絶同然となった筈』
『………』
 ニンフレイの顔から表情が消える。散り散りになっていた気配が再び集束していく。しかしそれを遮るように、ニンフレイはセヴェリエの前に一歩進んだ。距離が縮まっても、セヴェリエの表情は最初と変わらず無表情である。
『立ち入るなと仰るの』
『いいえ…私はただの余所者。今だけこの森と、海市館の主人であるエンデニール殿の留守を預かる身です。主人の許しがあれば叶うでしょうが───』
 ニンフレイの金色の細い眉が大きな皺をつくる。
『エンデニールは、海市館に居ないと?』
『旅立たれて3年は経ちます。行き先はエルフの国だとか。戻られるのはいつになるのか、私にもわかりません』
 ニンフレイと城騎士達に明らかな動揺が起こった。騒ぎ立てる者は居なかったが、互いが顔を見合わせ、静かに不安を訴え合う。逡巡するような間を置いて、ニンフレイは尖った顎を持ち上げ言った。
『セヴェリエ殿、とおっしゃいましたわね』
 その瞳がもう一度、セヴェリエの姿を観察するように動く。
『リンク家とオエセルのかつての決裂は、双方に非があって招かれたことですわ。それから月日は流れました。時は戦後の混沌をようやく脱しようとしているのです。過去にしがみつくのは終わりにして、今は再び手を取り合わねばならないのです。───おわかりになりますわね?
しかしここは、エンデニール殿の意志に従いますわ。これ以上の立ち入り、ご遠慮いたしましょう。幸い、立ち入るまでもなく、我らの目的は果たせましたもの───我らは、あなた様に会いに来ましたのよ。若賢者様』
『私はただの余所者です』
 セヴェリエの対応はにべないものであった。
『でもあなたは何人もの領民の命を救ってくださったわ』
 すかさずニンフレイは言った。
『そのあなたにわからないはずはない───オエセルに及ぼそうとしている禍々しい危機のこと。ご存知なのはあなたをおいて他に誰が居ましょう?』
『何もわかりません』ニンフレイの追求を刎ね返すように、セヴェリエは言った。
『過去にあなたとエンデニール殿との間で何があろうと、私には関係がないことです。あなた方がここへ何を求めて来られたのか、知りたいとも思いません』
『では───せめて我らの感謝の心を受け入れていただけませんか?あなた様をぜひともわが城へお招きしたいのです。あなたの恩に最高の礼を尽くすのが、我らの望み。どうか叶えてくださいませ』
慇懃無礼とまではいかないが、強引な態度であった。ハザは鼻白む思いで二人の遣り取りを眺めていた。
『せっかくですが、そのような大儀を受けるいわれを理解できません。私が狩人達を助けたのは、オエセルのためではない。お断りします───では』
セヴェリエはとうとうニンフレイの言葉を振りほどき、ハザを伴って戻ろうとした。
すると途端にニンフレイの態度が変わった。
『わかりましたわ』
 かかれ、という号令が同じ口から放たれると、城騎士達が抜刀し、瞬く間にセヴェリエ達の行く手を塞いだ。
 ハザは反射的に腰の柄を握った。構える───
『………どういうことです』
 セヴェリエは冷静に訊ねた。剣を身構えた騎士達の中心に、ニンフレイが悠然と笑い立ちはだかる。
『もうひとつの用件を果たすまでですわ。その男』
 見開かれた目が、ハザを見据えた。
『燃えるような赤毛の大男。難民崩れの卑劣な山賊───【苔穴のハザ】に間違いない。長年に渡ってわが領民を脅かしてきた罪人を捕らえて帰りましょう。領主たるものの、害悪を排するつとめですわ』
 その声を聴き終わるやハザは剣を抜いた。セヴェリエを見る。無表情だった顔に、初めて感情が宿っていた。
緑の双眸がハザを見返す。
(やるのか。俺は構わないぞ)
 言葉にせず、目で訴える。だが、セヴェリエはハザの剣を握った手に触れ、戦意を抑えた。
(セヴェリエ)
 セヴェリエは無言で、ハザと王女達の間に立ちはだかった。細い肩越しの向こうで、決して華奢ではない男達の顔が動揺する。しかし先頭のニンフレイただ一人は、セヴェリエの顔を真っ向から見返して、微笑した。
『ご一緒に、来てくださいますわね?────』