『何故、私をここへ?』
 夢から醒めたように大姫の手が止まった。セヴェリエは静かに立ち上がった。
『妾を助けて欲しいのです』
 離れていくセヴェリエに、大姫は言った。セヴェリエは黙っていたが、立ち去る気配はないことに、大姫は安堵した様子で、話を続けた。
『数年前の戦で、妾の夫は亡くなりました。その後は残された妾がこの城を守ってきたものの、城下の争いは絶え間なく続き、オエセルが長い歴史の中で守り続けてきた伝統でも対処できない問題が相次ぎました…女の身で、母親でもある妾には重過ぎる責務でしたが、それでも三年……なんとかやりおおせてまいりましたわ。でも』
 ベールの下で、悲しげに顔を俯かせる。
『この度、樹海で起きた恐るべき現象………』
大姫の体は、恐怖を思い返すように震えはじめた。
『オエセルは…アルヴァロンの知識を司っています。その膨大な情報の然るべき使用で、あらゆる弊害を解決してまいりました。たとえ大勢の侵略軍がやって来ても、我らは極小の犠牲のみで…あるいは一滴の血も流さずに撃退することができるでしょう。また天災についても、何年も先から予測でき、防災する術を知っています。
それらの恩恵は、わが領地にある豊かな緑───樹海がもたらすものです。樹海は長年、我らに日々の糧をもたらし、身を護り、智恵を与えてまいりました。争いを憎み、自然を愛すオエセルは、アルヴァロンの中でも、いいえ、世界を見まわしても、これ以上なく平和的な、理想の国家なのですわ。───でも、この度のこと。
こればかりは、前例がない上、持てる全ての知を投じても、なす術がありません。我らと長年密接していた樹海が、まさか害に変わろうとは……このままだと、樹海は魔物で溢れ、我らはただ喰い殺されるのを待つばかりです。  ひいてはその影響は、オエセルばかりでなく、いずれアルヴァロン───世界に及ぼすこともありえましょう。妾は、毎晩悪夢に悩まされております。セヴェリエ様』
 大姫は胸をおさえ、昂ぶった気を吐き出すような息をついた。
『あなたのお力を、どうかお貸しくださいませ。樹海に巣食う魔物どもを、あなたのお力で討伐して頂きたいのです』
 身を乗り出し、すがるように訴える。セヴェリエは、そんな大姫に深く沈んだ目を向けた。
『残念ですが、私にそのような力はありません』
『何故そんなことを仰いますの。あなたは、銀色の若賢者なのでしょう』
『大姫様も、王女様も…民草の噂を信用なされてしまうほど、事態が困窮しているのはわかります。たしかに、森で私が魔物を倒し、狩人を救ったのは事実です。しかしそれは、相手の力が偶然私に敵ったに過ぎない。樹海のさらなる奥は、もっと強力な魔物が待ち受けているやしれません。
 私は魔法を志してはいますが、まだまだ若輩者です。私などより、もっと経験を積んだ賢者をお探しになられた方が良いでしょう』
『では、その賢者とやらを見つけて来てくださいまし』
 大姫の言葉に、セヴェリエは目を見開いた。
『セヴェリエ様。我らにはもはや、あなたをおいて縋るあてがないのです。かつての大戦で、オエセルが失った兵の数は、戻るどころか減り続ける一方。大勢いた執政たちも国を捨てて逃げて行きました。このままだと、妾もこの城も、残されたわずかな時間を待つばかりです。いいえ、魔物達が城を襲う前に、恐怖で命を削ってしまうでしょう。お願いします、どうか───お見捨てにならないで』
 暫く沈黙が続いた。大姫の目はセヴェリエを見つめたまま、じっと動かなかった。ようやく、セヴェリエが口を開く。
『残念ですが、私はこのオエセルとは無縁の人間です』
『………自分はアルヴァロンの民ではない、とおっしゃるの?』
『いいえ。ただ、どこにも属していない。それだけです』
『オエセルに忠誠を誓う気はない、ということですね』
 セヴェリエは無言で肯定した。
『あなたは…エルフのようだわ』
辟易したように大姫は呟いた。
『妾が何を言っても無駄のようですね………』
 顔を背け、考えにふける。
 横を向いた大姫の目には、セヴェリエの変化が映らなかった。
『大姫様』
 ふいに呼びかけられ、大姫は顔を上げた。セヴェリエが目の前に居て、微笑していた。
『どうしても私の力が必要と、そこまで仰るなら───引き換えに、私の頼みを叶えてくださいませんか』
 声色に、大姫は自分でもわからなかったが───恐怖を感じた。
『…ええ。……ええ……妾に出来ることなら何でも…おっしゃって』
 応じながら、わずかに身をひく大姫に、セヴェリエは遠慮なく距離を縮めた。
『ハザを解放して下さい』
『ハザ?』
『ニンフレイ王女に捕らえられた、苔穴の山賊です。彼を解放するなら、力をお貸ししましょう』
 神秘的な緑の瞳が、大姫の心を縛り付ける。
 硬直から解き放たれると、大姫は答えた。
『………わかりましたわ』
『今すぐに』
『牢を開けさせます』
 大姫は傍らの小さなテーブルから金の呼び鈴を取り上げた。間もなくひとりの城騎士がやってきて、セヴェリエを外へ連れ出す。すると外に、ニンフレイが待っていた。
『引き受けてくださって、感謝しますわ』
 微笑む顔を、セヴェリエは見返した。しかし一瞬のことで、すぐに顔を背けて無言のまま歩き出した。ニンフレイは構わず、その隣に並んだ。
『もし断られたら───と畏れていましたの。あの盗賊とあなたが懇意かどうか、私は賭けていましたのよ』
『すべてはあなたのお望みのままです』
 セヴェリエは足を速めた。ユリのしつこい香りからも、王女の声からも離れたかった。さすがに地下牢にまでついてくることはなかったが、城の中にいる以上は、気が晴れそうになかった。鉄格子の牢は通気のための縦長の穴が空いているだけで、蝋燭の灯りがなければ、まるで闇の中にいるように思えた。セヴェリエが声をかけると、壁際からハザの大きな影が伸び上がった。手錠をかけられてはいたが、しっかりした歩調でセヴェリエの前に立つ。
嘆きの大姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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