『それは、魔物から逃げたということか』
『───』
 レムディンは黙った。王女の顔がたちまち落胆に染まる。
『どう対処なされる』
 レムディンは訊ねた。
『彼奴らが王都に侵攻する前に、討伐するしかありませんわ』
『………』
 レムディンはそれを聞くと、おもむろに身体の向きを変え、言った。
『───お見せしたいものがある。私についてきなさい』

 銀緑色のマントを翻し、レムディンは再び森の中へ入っていく。その背を見て、ニンフレイはセヴェリエの方を窺った。レムディンの去っていった方向を睨んでいたハザは、舌を打った。
『どうしてあいつがこんなところに』
『とにかく、ついて行ってみよう』
 ハザは不服そうだったが、セヴェリエが歩き出すと、後についてきた。ニンフレイ達も歩き出した。
 レムディンの案内で森の中を進み、低木が乱雑に生い茂る絶壁の道へ出ると、滝の音が轟音になって聴こえてきた。足元はごつごつした岩肌が下の大きな川底から切り立っている。さらに歩くと、濃霧とまるで雨のような大量の飛沫が身体を濡らした。そこは滝の裏側だった。苔むした岩壁に、まるで洞窟のような深い裂け目があった。レムディンはそこへ入っていった。セヴェリエ達も後に続く。内部は両手を広げてつかえてしまうほどの狭さだった。殆ど何も見えない暗闇を、慎重に壁伝いに進んでいく。道は下り坂で、案外歩きやすい道だった。
 しかし、奥に進んでいくにつれて状況が変化していく。空気が次第に重くなり、あきらかな異臭が濃くなってくる。高まる温度と相乗して、血の臭いと、何とも形容し難い生臭さが混ざっていた。しかもそれまで音らしい音も聴こえなかったのが、今ははっきりと、大勢の獣の声が聞こえていた。正体を認識できるのは、狼の唸り声、咆哮、鳥のような鳴き声、蟲の羽音。それに正体のわからぬ異様なものの鳴き声。人の声のようなものまで混じっていた。
 レムディンは一体何を見せようというのか。吐き気をもよおす臭気に耐えながら、セヴェリエはレムディンの背に続いた。にわかに視界が明るくなる。岩の壁が前方で途切れ、光が漏れていた。同時にレムディンの足が止まる。
その先は断崖になっており、見張り台のような場所から広大な地下を見渡せるようになっていた。

『見ろ』

 レムディンが振り返り、セヴェリエ達に前へ出るよう、道をあけた。フードを被り、異臭の混じった空気をじかに吸わぬよう注意しながら、セヴェリエは下を見下ろした。上空に向かって、風が吹き込んでくる。下の世界は奇妙な明りに照らされていた。四方を囲んでいる巨大な絶壁の隙間から外光が差し込んでいるのだった。それにしてもまるで炎を焚いているかのように赤い。
 そしてセヴェリエは、絶え間ない獣たちの悲鳴の正体を目の当たりにした。
 地底を埋め尽くすほどの獣の数だった。森で見かけるような獣から、家畜、魚、鳥、蟲のたぐいまでもが重なり、ひしめき合いながら、血の海で絡み合っている。あまりにも膨大なそのさまは、地獄の大鍋を覗くような光景だった。背後で呻き声と悲鳴がして、ニンフレイの部下がその場から後退した。ニンフレイも流石に耐え難いのか、顔を背けている。ハザはセヴェリエの傍にいた。
『喰っているのか』
 巨大な芋虫に圧し掛かられ羽を毟られる鳥の姿を見てハザが言うと、レムディンが横を向いたまま答えた。
『共食いではない。よく見ろ───』
 指差す方角には、先程出会った魔物とよく似た生物が、同等の大きさの蜥蜴のような生物に、黒い角のような生殖器をふかぶかと挿入し、せわしなく前後に動いていた。衝撃を受けている暇もなく、視界を逸らすと、あちこちで、いや、地下の生物全てが、異種姦を繰り広げていることに気がついた。それも一体一だけではなく、複数で一体を、あるいは複数同士で連なり、まるでそこに居る全ての生命が、交尾で繋がっているような───そんな錯覚を起こした。
 血臭と絶叫は、異種同士の物理的な無理を押し通した悲惨な結末を表してもいたが、同時に、異種交配の成功でもあった。蛙の腹を持つ鹿が、狼と蛇の交尾の隣で産卵しているのが見えた。
『…』
 セヴェリエは耐え切れず目を背け、呻いた。レムディンを見やる。氷のような無表情で地下から目を離すと、もうそれ以上眺めていても埒が明かぬとでも言う様に、黙ってもと来た道を引き返し始めた。外へ出て再び森に入り、白い幹の樹木が立ち並ぶ林で一同はようやく腰を下ろした。
 ここまでの道程で累積した疲労は皆一様に重く、暫くの間誰も口を開こうとしなかった。

『───レムディン』
 セヴェリエがようやく口を開いた。レムディンは少し離れたところの木に凭れかかり、皆が落ち着くのを見ていた様子だった。
『説明してくれ。あれは───どういうことになっている』
 セヴェリエが言うと、レムディンは静かな声で語り始めた。
『均衡が崩れたのだ。この樹海の、力を支配する者が消えてしまった。それが全てを引き起こした』
『均衡?』
『この地には古くから、強大な、魔法の源となる精霊の力が息づいていた。その力を発見したエルフ族は樹海に降り立ち、散漫になっていたその力の均衡を定めていった。すなわち、生物のあるべき姿だ。繁殖と進化を、この地の自然の時間に合わせることで絶滅を防ぎ、できるだけ多くの生命の共存が、永劫に続く環境を設計する。逆に言えば、そうしなければこの地の生命体は異常に繁殖し、不必要な進化を遂げ、自滅する宿命だった。
 精霊の力とは何か?──具体的に言うならば、それは生物全てに感情と意識を与えるようなことだ。獣が言葉を話し、怒り、悲しむ。木も草も、ひいては水や炎といったものまでそうなってしまうと、どうなるか?……生物は己の領分を越えてまで本能に従った生存競争を始め、より強い個体となって全てを従える頂点になろうとするのだ。共存ではなく、唯一の強者の絶対支配───今見せたのは、その端的な状態だ』
『自発的に異種交配して…驚くほどの速さで進化を遂げていると……?』
『そうだ。そして彼奴らの進化に対する欲求は、樹海に広く分布している。あらかたの生物は犠牲になった。そして強力な生物として、いくつかの種が完成しつつある。お前達が出会ったのも、そのひとつだ。刃の効かぬ硬い体に、怪力を持った腕、凶暴な性格…単細胞の生存本能だけでそこまで進化したのだ。ここに人間が交配されれば、さらに恐ろしいことになるだろう』
 突然、底知れぬ恐怖が一同を襲った。
嘆きの大姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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